◇新潟楽山会ものがたり

戻ります


(教訓としたい 知られざる記録)

                      会員番号・0034/S・Y

【生い立ち】

 山好きな先輩諸氏が集まって、新潟市農林中金ホールで開催された新潟日報社主催の「二井田恒雄氏(おいらく山岳会事務局長・当時)を囲む集い」で同氏のお話を拝聴。

講演後、最前列の座席におられた藤井 猛氏が立ち上がって「皆さん、新潟にもこのような中高年の山岳会を…」と呼び掛けたのが昭和51年7月10日のことで、新潟楽山会が誕生する瞬間であった。

 当時は中高年者の山登り志向が盛んになりつつあった頃で、同年4月から7月まで毎週一回新潟日報紙上に連載された二井田先生執筆の「中高年からの山歩き」が反響を呼び、山好き人間のあいだで話題になっていた時である。

 7月16日付新潟日報の家庭欄に「中高年の山歩き会」五頭山で結成登山へ【入会希望者を募集中】と載った。私も早速妻と連名で入会応募したことは言う迄もない。


【中高年からの山歩き】

 新潟日報紙に昭和51年4月から連載された(毎週土曜日掲載)二井田先生執筆の「中高年からの山歩き」は大変な好評を得て、私の職場でも茶飲話を賑わしていた。

妻もそのとりことなって、記事を切り抜いて保存していた。久々にそのスクラップ集を読んで、懐かしさを味わった。参考のためにその第一回連載文を抜粋してみた。

 (4月O日土曜日)サブタイトル「老いらくの山岳会」私は十七年前から、年寄りばかりで組織する「おいらく山岳会」という名称の山岳

会に入っています。この会は、年齢制限が四十歳以上で、上は無制限。八十代の人も二十人くらいいて、皆一緒に元気よく山を歩いています。(中略)人はいやでも年をとります。そして老いは、人から生の喜びや気力を奪いとります。

孤独で寂しい余生を送ることを余儀なくされます。そんな老人の一人が「老いらくの山岳会を作ろうではありませんか」という呼び掛けをしたことが「おいらく山岳会」の始まりです。(中略)山歩きは、他のスポーツと違って、一番、二番を争う競争がありません。脚さえ動けば、相当な老年でも可能なスポーツです。しかし単独登山は危険です。山は低い山であっても、落ちたり、方向を間違ったりすることはありがちです。一人だったらとんでもないことになります。ことに老人ならばなおさらのことです。そこで、山歩きの理想的な方法として「山岳会」あるいは「ハイキング会」を作るといいのです。         山に詳しく、山歩きについて確かな知識をもった経験豊かなリーダーが何人かいて、その人が会の中核にいなければなりません。またこの種の山岳会は、一見して「老年・熟年」の会とわかる会名を付けた方がよいのです。そうしない

と若い人が間違って入ってきて、その若さゆえに会をかき回されたりするものです。

入会資格の中に年齢制限を明記しておくことも大切です。 (後略) つづく。

なお、その他の記事のなかでのサブタイトルには、「気の合う友作り、心の支えに」「謙虚に、そして自由に…」などなどすばらしい文章が満載。心を癒してくれます。

 

【会の結成】

 昭和51年8月8日、晴天に恵まれた出湯小学校(当時)校庭に約170名の会員が集合。       藤井 猛会長を始め役員の方々が居並び、厳かに結成の式が執り行われた。

エイ、エイ、オー…、などと気勢を挙げたり、万歳三唱したり、意気軒高。170名の大集団が登山を開始した。なにしろ最初の登山でもあり、お互いの力量も分からない状態で、班の編成はしたもののテンデバラバラ。群雄割拠の戦国時代みたいなもので、山慣れた強い人たちが我先に山頂へと登り上がって行った。

 どちらかと言えばこれまで単独か、ごく少人数での静かな登山を楽しんできた私にとっては、ただ驚きの山行であった。

 登山途中、烏帽子岩でここまでと決め込むグループ。五ノ峰で良しとする集団、三ノ峰小屋付近でリュックを広げ、おにぎりをほおばるグループ、どうしても一ノ峰までと頑張るベテラン組等々、頂上でもテンデバラバラの状態。

 下山して出湯華報寺本堂で開催された発会式、臨時総会で色々な取り決め事が話合われ、新潟の中高年山岳会が誕生したのであった。

 

【会名の由来と会誌楽山の表題文字】

 会の名称については、いろいろと議論があったようだが、私達下々のあづかり知らぬこと。上の世話役さん方で話し合いの結果、会員NO.6 1番の横谷渓水氏の提唱された「楽山会」に決定された。

“知者楽水 仁者楽山” “知者動 仁者静” “知者楽 仁者寿”「子のたまわく」の論語から抜き出しての命名であったとは、あとになって先輩リーダーN氏(故人)からお聞きした話である。

 昭和52年1月に発行された会誌「楽山」創刊号から現在まで続いている表題文字について、初代編集長であった会員NO.98番丸田 廣氏(故人)が語られている。

「会の名称が『新潟楽山会』と決定されたあと、会誌の『楽山』を発行するについて『楽山』の字をどのような書体の字で表紙に載せたらよいかの評議の結果、篆書体の『楽山』の字が決定されたもので、この字が藤井会長の達筆な文字で載せられることになったのです」と。

なお、現在の月報『楽山だより』の題字は、二代目会長の山田重栄氏(故人)が書かれたもので、昭和62年3月号の月報からの掲載である。

当時の総務担当副会長・木下 力氏が、会業務全般のコンピューター化を完成されたのもこの時期からで、会報等がワープロ印刷でスッキリと目の覚める感じであった。

 

【会員番号】

 入会して、私が頂いた会員番号が34番、妻が35番。 300名近い入会者の中、二桁のこんな若い番号を頂けるなんて思いもよらなかったのに‥‥‥。一説によれば、藤井氏の許ヘドッと申込書が殺到し、次々に積み重ねて置いたものが崩れてしまい、仕方なしに手当たり次第に番号を付けていった。または、届けられた順に積んでいったものを、締め切った時点で上から順に番号を付けていった。したがって最初に申し込みをした人ほど大きな番号になってしまったとの説があるがどうか、知る人ぞ知る藤井初代会長だけがご存じのこと。ちなみに藤井会長の永久NOは38番である。

新潟楽山会会員番号第1番の方は神保正雄氏。長岡市の人であった。

 

【会の歩み】

 山好き人間の熱意のもとで、劇的な誕生をみた新潟楽山会。結成登山の後、9月には二王子岳登山(参加150名)、10月清津峡探勝(100名余)と大集団登山が続いた昭和51年も明けて、翌52年に実施された会山行数は27コース、会員数は340名余と会の規模は年と共に順調に延び続けて、まずは順風を受けての歩みが続いた。

しかしその陰には、藤井会長の並々ならぬご苦労とご心労があったことは、忘れてはならない。

 初期の頃の「楽山だより」を開いてみると、小さな宇で実にこまごまと山行案内・山行実施結果等のほか、スペースを大きくとって山行必読や、山で事故を起こしてはならない、山でのマナーを守ってとか、会員同士の親睦をはかって…など、毎月毎月ご自分が思っておられることを、こまごまと書き連ねて送って下さるご苦労が、身にしみて伝わってくる。当時の会報は“わらばん紙”の謄写版刷りであった。

 年々増え続ける会員数と山行計画。数が増えることは会の発展を象徴するもので喜ばしいことであるが、それにともなう危険率の増加。山行事故の皆無を願ってのご心労は、いかばかりであったろう。

【リーダー考】として藤井会長が語られている。抜粋してみよう。

「楽山会を支えるものがリーダーであることを考えますと、一度は申しておかなければと思っておりました。楽山会のリーダーには資格基準がございません。(中略)

 リーダーに望ましい経験、能力、性格等を挙げますと、第一に山行経験が豊かであること、第二は責任感が旺盛であること、第三に心くばりができること、第四は心優しくて思いやりがあること、第五に悪天候や道に迷った時など適確な判断で、中止や退却の決断力を持ち合わせた方とでも言えましょうか。(中略) 

これ程の責任ある行為を無償で奉仕する訳はいったい何でしょう。人それぞれ多少の違いは有るとしても、私の経験で申せば、自分の好きな自然の醍醐味を会員の皆さんに満喫して頂き、そのすばらしさに共に酔い、共に喜ぶ幸せを共有できる満足感、これがリーダーを支える最も大きな理由だと思います」 (後略)


【山行事故】

 会員数も増加の一途をたどり、会員間の交流が盛んになるにつれて、会員同士のお誘い山行が盛んに行なわれるようになった。会山行では皆無であった山行事故も、会員同士の山行では遭難とはいえないまでも、アクシデントが発生していたようだ。

 残雪の五頭山で、他のパーティーの踏み跡を辿って道に迷い、右往左往の挙句、暗くなって下山したなどの話はよく聞いた。

 昭和56年春だったと思うが、会が初めて動いた事故がある。気の合った会員8名が誘い合せて伊豆天城山登山に出かけた。万二郎山頂で一人がカメラのフィルムの入れ替えを始めたにもかかわらず、「先に行くよ」と歩き始め、途中で待ったがなかなか合流せず、捜しに戻ったが見つからず、とうとう藤井会長に捜索願いを求めてきた。

地元の警察へ捜索を依頼すると共に、会長以下3名が新幹線で現地に向かった。本人は道に迷い、山中でビバーク。翌日ようやく下山してきたのだった。

これは典型的な「置いてけぼり事故」である。


【天上大風】

 昭和59年1月、楽山会に衝撃が走った。「楽山だより」2月号冒頭に藤井会長の挨拶文で、「新年早々大変な悲報をお伝えしなければなりません」との前置きで、2月総会後、第二代会長として活躍して頂くことになっていた、本宮副会長の訃報を伝えたのだった。1月8日、恒例の弥彦山初詣登山(参加者34名)に参加されて、一年の弥栄を祈られ、下山後行きつけの食堂にて参加者全員で新年を祝われたばかりの翌日1月9日、おひとりで留守居中の急死。淋しいお旅立ちであった。

担当リーダーN氏の山行報告を読むと「雪の降りしきる寒い寒い初登山。奥の院にてお払いを済ませて下山。(中略)これが本宮さん最後の山行となろうとは誰が予測できたであろうか。いつも和やかな氏の面影、両手でしっかり握ってくれる握手の温もりが、心の奥に伝わってくる思い出の山行であった」と。

本宮氏は高山植物にも造詣が深く、山行の都度教えて頂いたものだった。また詩人でもあった氏は「楽山会の歌」を作詞され、後年、令嬢敦子さんが作曲されたのである。

 会長交替劇のシナリオが決まっていた上層部に走った衝撃は、我々しもじもの者には知るよしもないが、まさに【天上大風】であったことに間違いない。


【二王子岳 捜索騒ぎ】

 豪雪で迎えた昭和59年早春、山里にはいつまでも春の気配は感じられなかった。

そんなある晩、会長宅へHリーダーの奥さんから電話があった。「主人が二王子岳へ行ってくると出掛けて、まだ帰ってこない。会員の女性数人と出掛けたようだ」とのこと。             早速非常招集がかかった。「もう夜も遅いので明朝早く出発しょう」と打合せ、捜索の支度に掛った。早朝暗くに2台の乗用車に分乗、現地の南俣集落へ向かった。

山里の集落はすっぽり雪の中。雪の壁に囲まれるようにH氏の車が埋もれていた。

雪質は堅くワカンはいらないが、時々股まで踏み抜く雪道に苦労しながら、ようやく二王子神社に到着。一息いれて出発しようとした時、なにやら上の方から声が聞こえてきた。H氏パーティーが下ってきたのである。互いに無事を喜びあった。

一時も早く無事の報告をと、私は転げるように走った。集落近くして駐在さんを先頭にした集落有志による捜索隊が登ってくるのに出会い、パーティーの無事を伝えて、厚くお礼を申し上げお引き取りを願ったが、現認しないうちは戻れないとのこと。下山して田貝集落の駐在所で事情聴取。午後になってようやく解放された次第である。

H氏の話によると、登山日は曇天ながら穏やかな日で、女性会員数人を伴って雪上にトレースを設けながら順調に登り、頂上小屋に辿り着き昼食をとる。午後下山準備を整えて扉を開けたところ、外は風雪まじりのガスで一寸先も見えない状態。様子を見ることにする。夕刻になっても条件は悪くなるばかりで、此処でビバークを決断。

無線の無いことを悔やむ。翌早朝は霧も晴れて、星空を見て歓喜。トレースを辿りながら下山したとのこと。私は話を聞いて、「さすがH氏」と冷静な判断を讃えた。

 二王子岳頂稜部は有名な広尾根。雪面に濃霧がかかったらホワイトアウトである。過去にリングワンデルング(環状彷徨)で避難小屋に辿り着けず、えらい目にあったパーティーは幾組もあったと聞く。

 早春の雪山での捜索出動は、会として最初の出動であった。

 

【山行事故その教訓】

 楽山会の登山は集団登山である。現地までの往復は大半マイクロバスを使用するので、パーティーのメンバー数は、通常乗車許容人数の20名から24~5名となる。

なかには人気コースとなると、バス2台、4~50名の参加コースも出現する。勿論担当するリーダーが、そのコース状況の如何と、参加人数に似合ったサブリーダーを確保できるかどうかによって、であるが・・・ 

参加者の力量が一致していることが基本であるが、大勢の中には力量不足の人も、また体調不良を抑えて参加する人(以ての外の行為)、あるいは集団になじまない人もいるだろう。いつかは起こるのでないか・・・        リーダーであれば、誰でも脳裏をよぎる思いがある。 起きてはならない事故が起こった。


【日光白根山遭難事故】

 平成元年7月、1泊2日の山行であった。24名のパーティーはMリーダーのもと、4名のサブリーダーが固めて、早朝宿を出発。曇天ながらまずまずの登山日和。山頂到着後パラパラと雨粒を感じて、早々に頂上をあとにした。途中うっかりルートを外した事に気付いて停止。Mサブと共にルート確認のため戻り、正常ルートを発見、全員を誘導する。

この時は全員まとまっており、散らばったわけでないので点呼はとらずに出発した。

五色沼に着いて昼食をとる。この時にMサブリーダーのいないことに気付いた。トイレかと待ったが来ず、前白根を経るコースを回ったかとひとり合点して出発。必ず通らなければならない弥陀ヶ池で待ったが現れず。もしものことを勘案して、サブリーダー2名を(1時間半位待つように)残し、菅沼登山口へ向かった。菅沼にも居らず、残した2名も下山、緊急事態と認識。楽山会役員宅へ連絡。許可を得て沼田警察署へ捜索依頼をする。

以上はMリーダーの手記である。新潟でも緊急事態発生と非常呼集がかかった。私事であるが、私も出羽三山縦走から帰宅したばかりであった。早速打ち合わせの上、山田会長以下5名で自家用車2台に分乗。雨の降りしきるなか、夜の関越道をひた走った。午前6時、菅沼キャンプ場に到着。憔悴しきったMリーダーを慰める。聞けば今朝未明午前3時まで片品村救助隊が大雨の中、捜索してくれたが手掛かりはなかったとのこと。頭の下がる思いである。

一休みの後、捜索に出発の矢先、菅沼キャンプ場の店へ車で上がってきた人が、“途中道路に疲れた恰好で歩いている人がいた”との情報を得て、確認のため出発。

本人であることが確認されて、ホッと胸をなでおろす。あとで聞いたことだが、集団の中程にいたMサブリーダーが、迷うはずのない登山道で忽然と姿を消した。ミステリーである。


【五色ヶ原 台風の恐怖】

 平成元年8月後半、Yリーダーが担当する「五色ヶ原」山行が実施された。実は山行実施日3日前には小笠原諸島付近で台風が発生して北上していた。出発日の気象予報では、明日には紀伊半島付近に上陸、日本海に抜ける公算が大きいと報じていたと言われる。

 台風情報にはリーダーは非常に悩まされる。マイクロバスの予約問題とか、参加者に対する決行、中止の指令通達とか、万が一の予報はずれの期待とか、悩みに悩んで、最後に選択する答えは、淡い望みをかけて決行と答える。しかしその決断は、一言無謀である。

 出発日は穏やかだった。男性10名、女性14名のパーティーは、立山室堂からザラ峠を越えて、五色ヶ原の雄大な景観を愛でながら山荘に到着し、一夜を憩った。楽しい夕食時、山荘の主人は「台風は海岸沿いに東海地方へ北上の見込みで大丈夫」と言っていた。

 夜半から雨降り模様となった天候は、夜明けにはガスって風も次第に強くなってきた。

山荘主人の助言に望みをかけて、少しでも早く室堂に着けるよう時間を早めて早朝に出発した。雨のザラ峠を越えて獅子岳の急登に喘ぐ。鬼岳の尾根上で台風の直撃を受けた。

 予想よりも早い襲来。避難の場所もない尾根上での暴風雨に、帽子やリュックカバーを飛ばし、一同それぞれ岩にしがみついたり、腹ばいになったりで動きがとれない状態となった。このままでは一同寒さで凍死してしまうと声を張り上げて、一ノ越山荘への前進を叫ぶが、風に吹き消されて届かない。それでも何とかサブリーダーに守られながら、パーティー一同、風の吹きつける間をぬって少しづつ前進を繰り返し、三隊に別れてしまったが、優秀なサブリーダーのサポートとメンバーの必死の努力で、ようやく危機を脱出することができた。

以上はYリーダーの手記を要約したものだが、台風が本州への接近は、今では大分前から予測できるのだ。今回の台風遭遇はあまりにもギリギリの綱渡り的行動でなかったか。アワヤ重大事態になる寸前の人もいたと、Yリーダーは述懐している。

 

【焼峰山 単独行の道迷い】

 平成2年春、夜遅くに会長宅へ緊急電話が掛った。リーダーのK氏が今朝愛犬を連れて焼峰山へ登山に行って戻らない、と家族からの連絡である。遭難対策委員の各氏に連絡して待機して頂くことになったが、登山の経験もない、地元の地理も不案内の家族が心配のあまり現地へ向かったとの連絡を受け、山へ入ったものと判断。午後11時出動を決定。

各委員から出動してもらった。夜中から朝まで山中を捜索したが手掛かりを得ず。そのうち傷を負ったものの無事下山したとの連絡を受けて、大事に至らなかったことを喜びあう。

 (以上遭難捜索に関する報告書の要約)

 K氏の手記を要約すると、K氏担当の焼峰山山行が一週間余り先に近付いたため、下見登山に出掛けたのだった。滝谷口へ車を置いて、所々残雪の残る登山道を順調に登り、昼前に頂上に到着する。食事の後、下山開始。雪面に残した足跡が融けてよく判らない。

藪をきらって雪面を下ったため夏道を外してしまった。修蔵峰に出るはずなのに出ない。此処で戻ればよいものを、別の尾根を辿ったため猛烈な藪に入り込んでしまい、道迷いとなってしまった。焦れば焦るほどとんでもない方向に行くものだ。体力を消耗し、挙げ句の果てに沢へと下ることになる。途中、落石を左足に受けて歩行困難となる。 

仕方なく緊急露営、寒かった。夜が明けて沢伝いに下る。ようやく内ノ倉ダムの道路に出て、通り掛った車に救われた。  

登山の必携品、地図とコンパスはどうしたのだろうか。もっとも地図が読めなければ致し方ないが…。地図は迷ってからでは遅い。常時現在地を確認して、目的のポイントを目指さなければならないのだ。山を甘く見てはならない。

 

【宝剣岳 転落事故】

 会結成20年目で、あってはならない重大事故が発生した。平成8年7月の事だった。

Sリーダー引率のもと、男性12名、女性34名のパーティーは、マイクロバス2台に分乗して、木曾駒ヶ岳登山にむかった。駒ヶ根登山口から登山バス、ロープウェーを乗り継いで千畳敷カールに上がる。晴天に恵まれた山行は楽しさいっぱいで、心を浮きうきさせてくれる。山荘へは予定より早く到着し、休憩の後宝剣岳山頂へと出発。途中、鎖場や悪場にはサブリーダーを配置して安全を確保。次々と山頂に登り上がった。突然上部で叫び声と悲鳴が聞こえた。何事かとSリーダーがかけ上がった処、Mさんが転落したという。

 ただちに関係機関に救助依頼をして、新潟からも会長以下遭対委員のメンバーが走った。結末は悲しい遺体収容となってしまった。

 事故顛末を聞くと、本人は憧れだったという宝剣岳に登った嬉しさと、好展望に気をとられてしまい、「頂上は狭く危険だから足元にはくれぐれも注意」とのリーダーの注意を忘れてしまったのか、写真撮影に夢中になり、カメラのファインダーを覗いたまま後ずさり「危ない」と声をかける間もなく、転落していったという。居合わせた人達の思いは、如何ばかりであっただろうか。

 会始まって以来の重大事故の発生で、これ以上の激震はあろうか。早急のリーダー緊急会議を開いて事故顛末の報告、今後の対策を協議する。

【主なる項目の抜粋】

①当面計画されている20周年記念山行「一等三角点一斉登山」の延期。

②記念植樹の中止。

③会員に対する指導教育の徹底

 全会員に対し、安全登山の心構え教育の実施。(会報に安全登山講座を連載する)

④一声運動の実施

 山行中、安全に関して気付いたことはお互い積極的にしかも気軽に声をかけあう。

 相互の連帯感、仲間意識を養う。

⑤楽しさ優先山行からの脱却

 山の楽しさは結果であり目的でない。安全山行を実践したからこそ、もたらされる楽しさである。

⑥予備知識の吸収、下調べの励行

 「自分の行く山が何処にあるか分からない」では山へ行く資格がない。まずその山を知ることが安全対策の第一歩である。

◎ 以下会長の会員皆さんへのメッセージを抜粋した。

 「今回の事故は家族を一瞬にして悲嘆のどん底に落としこんだ誠に痛ましい事故です。山ではどんな危険が待ち受けているかわかりません。一瞬の油断も許されません。会員の皆さんも今回の事故を教訓にして今後の山行に参加して頂きたいと思います。」

 

【これからの楽山会】

 これまで私の知る範囲で、事例をあげて事故の恐ろしさを述べてみた。一歩誤れば死につながる場面に直面せざるを得ないのが山登りであれば、安全につながる普段の山への心掛け、姿勢が大事であるといえよう。事故を起こしてはならない。一つの重大事故の発生の陰には、数えきれない隠れた要因がひそんでいると言われる。

 隠れた小さな一つ一つの要因を取り除いていくことが安全、無事故につながる道であると聞いた。その行為を惜しんではならない。

 近年、ヘリコプターによる救助が2件も発生した。1件は長丁場による疲労であり、いま1件は下山途中の転落で、下降時の緊張がとれてホッとした油断の一瞬だった。

 楽山会は若くない。会員の平均年齢も年々上昇し65.3才(平成18年)となった。

山は年齢で選ぶものではない、山は自分の体力や技術にあった山を選べばよいと人は言う。        

年と共に衰える体力やバランス感覚。自分自身によく言い聞かせて、ゆっくりと焦らずに山を楽しめばよい。

健康を保って、安全登山を楽しみましょう