≪紀行文≫ |
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〜〜〜柳都新潟の歴史と艶やかな古町芸妓の舞に魅了されて!〜〜〜 |
新潟花街あるきの2回目です。冬の新潟とは思えないような晴天に恵まれました。6人ずつガイドさんについて4グループでスタートです。
まずはNEXT21の19階展望ラウンジへ。どんどん上がっていくガラス張りのエレベーターから見える景色に気持ちが高まります。
NEXTはNIIGATA(新潟)EXCITING(感動)TOWER(塔)の略で今回初めて知りました。展望ラウンジから新潟の町並みや新潟砂丘、新潟西港、信濃川や五頭・飯豊の山並みなどが一望できイスやテーブルもたくさん置かれていているのでゆったりくつろげるスペースでした。 |
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ガラス張りのエレベーター |
ガイドさんの説明 |
遠くに飯豊の山並みが |
NEXT21を出ると歴史案内板があり、江戸時代には新潟奉行所がおかれ明治維新以降は新潟県庁⇒新潟市役所⇒NEXT21(商業ビル)⇒中央区役所と行政府が変遷したことが記されています。またNEXT21の柾谷小路側の入り口には旧三越のライオン像が鎮座していました。
新潟で最初に作られたというマンションの前を通ってオギノ公園へ。 |
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歴史案内板 |
旧三越ライオン像 |
新潟市初のマンションです! |
オギノ公園は荻野久作氏の自宅があった場所で、画期的な受胎調節法を発表した荻野氏の功績を称えた銅像が設置されています。また荻野氏が子宮がんの手術方法を改良して現在の子宮がん手術の基礎を築いたことや新潟市名誉市民であることも案内板から知ることができました。
荻野氏の偉大な功績に感謝しつつ県知事公舎前を通り過ぎると素敵な白い建物が目に入りました。
旧副知事公舎です。現在はレストランになっていますが100年前の建物で格式のある洋間と和室は当時の姿のままだそうです。(高級感がただよいますが一度は行ってみたいです!)旧副知事公舎からカトリック新潟教会へ向かいました。
チューリッヒ出身の建築家が設計し、ロマネスク様式を取り入れた和洋折衷の木造教会で高さ20mの双塔がシンボルとなってます。中に入ると色鮮やかなステンドグラスに囲まれた聖堂が目の前に広がり、立派な司教座や現役で使われている日本最古のパイプオルガンなどがあって粛々とした雰囲気が感じられました。
ここから少し歩くとドッペリ坂です。この坂の上には旧制新潟高校の寮があり学生達が古町などの繁華街に通う近道にこの坂を盛んに利用していたことから、遊び過ぎると落第するぞ(ドッペルン:ドイツ語で「二重」→ダブる→留年)ということで名付けられました。階段も59段(及第点は60点以上)でわざわざ59段に作ったのか?偶然59段だったのか?・・わかりません。 |
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オギノ公園 |
荻野久作博士像 |
県知事公舎 |
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旧副知事公舎 |
カトリック新潟教会 |
ドッペリ坂 |
ドッペリ坂を登りきると砂丘館があり、ここは旧日本銀行新潟支店長役宅でした。立派なお庭で雁行した作りの室内から眺める景色は変化に富んでいるそうです。ここから少し歩くと安吾風の館があります。旧市長公舎で坂口家から寄贈された安吾の自筆原稿や愛用品が展示されています。新潟大神宮には坂口安吾生誕碑が建立されていました。 |
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砂丘館 |
安吾風の館 |
坂口安吾生誕碑 |
ここから白壁通りに向かいます。
北方文化博物館新潟分館は明治28年築の国登録有形文化財で、昭和3年に増築された洋館に会津八一が晩年の10年間を過ごし終焉の家となりました。館内には八一の書や資料、良寛の書が展示されています。
白壁と石畳の風情ある通りを歩いて旧齋藤家別邸へ。建物は大正7年築の数寄屋風書院造りの近代和風建築で池泉回遊式庭園は国指定名勝です。池は砂丘からの地下水を利用しています。平成17年に所有していた加賀田組から新潟市が買い取り公有化しました。
この旧齋藤家別邸に隣接しているのが行形亭です。元禄年間創業の新潟で最も古い料亭で建物は国登録有形文化財でシンボルは「鶴と松」です。立派な松が植えられて土蔵には鏝絵の鶴が見られるそうです。行形亭(極楽)と旧新潟刑務所(地獄)の間には小路があって地獄極楽小路と呼ばれています。旧新潟刑務所の赤煉瓦塀が今でも残っていました。なお旧齋藤家別邸入り口を少し過ぎたところに「まちあるき交流スペース」があるので休憩することができます。 |
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北方文化博物館新潟分館 |
白壁と石畳と旧齋藤家別邸 |
石畳と行形亭の黒塀 |
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立派な松の行形亭 |
地獄極楽小路 |
まちあるき交流スペース |
ここからホテルイタリア軒へ向かいました。イタリア軒の向かいには蕗谷虹児花嫁人形歌碑があります。「花嫁人形」は薄幸のまま28才でなくなった母親と貧しさゆえに芸者に売られていった幼馴染の女の子を偲びイタリア小路を行きかう古町芸妓の姿を見て生まれた詩だそうです。歌碑は蕗谷虹児自身の希望でこの地にひっそりと建てられました。
イタリア軒は明治7年創業の日本で最初の西洋料理店で、フランス曲馬団員のコックだったピエトロ・ミオラが大ケガを負って新潟に取り残されてしまった時に文明開化を推進する当時の新潟県令楠本正隆の援助を受けて東中通に牛肉小売店を開業したのが始まりでした。その後大火で店が焼失し西堀通の現在地に本格的西洋料理の「イタリア軒」を誕生させました。瀟洒な洋館と料理の味で「新潟の鹿鳴館」と誉めたたえられたそうです。1976年から現在の「ホテルイタリア軒」になりました。館内には様々な過去の写真や資料が飾られていて1階のロビーは黒を基調としたクラシカルな雰囲気で2階はまるで異国の地に来たかのような空間が広がっていました。創業者の思いや歴史が感じられる特別な雰囲気に驚きそしてまた訪れたいと思いました。 |
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蕗谷虹児花嫁人形歌碑 |
ホテルイタリア軒 |
クラシカルな一階ロビー |
いよいよ古町花街へ。古町花街は古町通り8・9番地周辺地区(東堀・西堀・新堀・広小路に囲まれたエリア)でお座敷で芸妓の舞などを楽しめる料亭や置屋があります。
行形亭や鍋茶屋のような全国でも最大規模で歴史と格式を有する料理屋や大火や地震をのがれた戦前の歴史的建造物が多く残っています。
鍋茶屋は1846年創業で国登録有形文化財です。昭和13年に増築された棟は3階建で200畳の大広間があり木造でのこの規模の料亭建築は類を見ないといわれます。「新潟に鍋茶屋あり」と謳われ多くの文人墨客や政財界の有力者が訪れた老舗料亭です。
鍋茶屋通りを広小路に向かって歩いていくと「かき正」があります。昭和4年創業の3階建の料亭で創業者の句会に高浜虚子や中田瑞穂など多くの歌人が訪れています。さらに歩くと旧美や古です。元は「きなれ亭」という待合で現在は三業組合が事務所や稽古場として使用しています。「古町柳都カフェ」も併設されていて芸妓さんがお茶やお菓子をお運びしてくれます。
斜め向かいには日本舞踊市山流宗家の住宅兼稽古場がありました。地方に宗家を置く唯一の日本舞踊家元で多くの古町芸妓を育て新潟の花柳界の発展に尽力されて平成15年に新潟市無形文化財第1号となりました。建物は明治末期のもので小路側に玄関があり玄関引戸の透かし彫りや矢羽形の目隠板などに宗家としての趣が感じられました。
昼食会場へ向かう途中に柳都美術館がありましたが残念ながら休業中です。風が少し冷たかったものの穏やかな日差しの中で柳都新潟の歴史にふれて楽しく花街を歩きました。 |
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200畳大広間の鍋茶屋3階棟 |
高浜虚子も通った「かき正」 |
旧美や古(古町柳都カフェ) |
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今は三業組合の事務所兼稽古場に |
趣ある市山流宗家玄関 |
柳都美術館(残念ながら休業中) |
昼食は東堀9の割烹「大善」です。自己紹介の後に郷土料理風のミニ会席をおいしくいただきました。
食べ終わるといよいよ古町芸妓の舞の鑑賞です。踊るのは振袖さんの咲也子さん、唄・三味線は留袖さんのあやめさんでした。(京都で「芸妓」見習いを「舞子」と呼ぶのに対し新潟では「留袖」見習いを「振袖」と呼ぶのだそうです)
目の前で艶やかに新潟おけさや新潟小唄を舞う姿にうっとりとしてしまいました。お正月なので二人とも稲穂やウサギのかんざしをつけていましたが、振袖さんは髪型が桃割れで襟は柄もの、帯を「矢の字結び」にするのだそうです。鑑賞後はしばしトークタイム。私たちのテーブルはあやめさんとお話をしました。お披露目が5月だったので「あやめ」なのだそうです。(その後入った新発田出身の振袖さんが「あやめ」を名乗りたかったと残念がっていたとか・・)裾が‘お引きずり’なので擦れてだんだん丈が短くなっていくなど様々なお話をきかせてもらいました。
最後に思い切って「千社札下さい!」とお願いした頂けたので嬉しかったです。お財布に入れるとお金が舞い込む(舞妓む)といわれ、芸妓さんは元舞妓さんなのでもっと舞い込む(元舞妓む)のでこれで今年の山行費用はバッチリ!心配ありません。
最後にあやめさん・咲也子さんと一緒に笑顔で集合写真を撮って新潟花街あるきが終了しました。
とても楽しく充実した内容の新潟花街あるきを企画して下さったリーダーさんに心より謝いたします。今年はきっと良い年・良い山行になると思います。 |
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割烹「大善」 |
海老真薯、ご飯お汁、デザート付き |
咲也子さん(左)あやめさん(右) |
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新潟小唄 |
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あやめさんの千社札 |
集合写真!! |
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