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道の駅小谷で準備 |
さあ!出発です |
西方堂到着 |
街道の脇には、懐かしい表情の石仏や重い荷を背負って倒れた馬や牛の供養でしょうか馬頭観音や大日如来の碑が見られます。 |
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馬頭観音 |
大日如来の碑 |
見晴しのいい高台に、「稗田山崩落」 を免れた明治以前の様相を残すお寺と社 (常法寺と来馬諏訪社)。
苔むした来馬諏訪社の石垣が秋の陽に、遠い昔の面影を残しています。 |
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常法寺 |
来馬諏訪社とその石垣 |
明治44年の稗田山の大崩落によって様相が一変したといわれます。
現在の広大な川原の部分に街道が走り、田畑がひらけ、学校・役場をはじめ来馬の集落がありました。
≪稗田山の崩落≫
世に日本三大崩落の一つといわれる稗田山崩落の大惨事は、明治四十四年 (1911年)八月八日の未明午前三時に突如して起こった。
四キロ余にわたって崩落した土石流は浦川を流れ下って姫川を塞き止め、ここ松ヶ峯を乗り越え、この地域一帯は壊滅的な打撃を受けた。
死者二十三名 家屋の流失25棟及び田畑の流失 七十余町歩。 と、言われています。 |
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大崩落の後、現在は集落や学校が建っています |
塩の道は川沿いの道を辿ります。道は狭くなり湿った大きい石がゴロゴロと歩き難い道がつづきます。
荷を運ぶ牛や馬、それにボッカの人達は、さぞかし辛い歩きだったことでしょう。 |
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川沿いの道 |
道は狭くなります |
路傍の石も苔むしています |
塩の道は、松ヶ峯から川沿いに進み浦川橋を渡り、「幸田文・文学碑」 に向かいます。
橋の上から眺めると、右側一帯 護岸工事が行われています。崩落の跡が痛々しく見えます。
≪幸田文・文学碑≫
平成4年10月、その80周年を記念し、大災害で亡くなった方の慰霊と災害を後世に語り継ぐ指標になってほしいとの思いを込めて 「崩れ」 という作品を残した作家・幸田文の文学碑が建立されました。 |
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護岸工事が行われています |
歳月茫々の碑 |
「石坂の賽の神」、小さな峠で邪霊の侵入防ぐ神行路の安全を守る神。
村境や集落の入り口に置かれることが多かった。
( 041241.jpg 041303.jpg 041302.jpg )
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石坂集落入口 |
石坂の賽の神 |
温かい陽射しを浴びて集落に向かいます |
集落が見えてきました。 道路を横切り集落に入ります。
今回の「石坂越えコース」は、小谷の集落を何度か通る全体的に穏やかな雰囲気のコースで、随所に 「塩の道」 をとても大切に守っていることが感じられます。 |
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集落が見えてきました |
行き届いています |
集落に降ります |
またまた道路を横切り、出口の道祖神や石仏達に見守られて集落に入ります。
タイムスリップしたような山村風景に、心がなごみます。 |
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道祖神や石仏達に見守られ |
タイムスリップしたような山村風景 |
いよいよ、難所といれる 「フスベ」 です。
急な斜面のトラバースで道巾は狭く 右の山側から今にも土砂崩れしそうな感じです。
そんな斜面の上の方でイノシシ? タヌキ? いや、カモシカでしょうか? 小さく生き物が見られました。
重い荷を背負った牛や馬、ボッカさんは雪や雨の日などは、さぞかし大変だったことでしょう。
フスベの入り付近に 「南無阿弥陀仏」 と刻まれた石碑が印象的でした。 |
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フスベの入り付近の石碑 |
難所 「フスベ」を通過 |
フスベから解放されて足取軽く車坂 |
やがて、宿場の名残のある街村風景の中をルンルン気分で歩き、このまま今回の最終ゴールの「小谷村郷土館」 へ向かうのかと思いきや、まだまだでした♪
再び「塩の道」の標柱を辿って、虫尾の 「阿弥陀堂」 に向かいます。
「阿弥陀堂」は古くて小さく 昔は安産や母乳の出ない婦人たちの信仰を集めたお堂です。
境内の石仏を見てまわり、峠道に戻ります。 道の先に民家の屋根が見えてきました。
今度こそ、最終ゴールのようです。
全員元気に、石坂越えコースの12Kを完歩し 笑顔で記念撮影で〜す♪ |
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宿場の名残のある街村風景の中をルンルン気分で歩く |
虫尾の 「阿弥陀堂」 |
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境内の石仏 |
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民家の屋根が観えてきました |
全員元気に、石坂越えコースの12Kを完歩し 笑顔で記念撮影で〜す♪ |
SL、LL、班長、会計、そして参加された会員のみなさま、お世話になりました。
楽しい山行、有難うございました。 |
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