≪紀行文≫ |
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〜〜〜思い出に残るいい旅ができました〜〜〜 |
「新潟県宗教法人名簿」(平成7年3月31日現在調)では佐渡の寺院数は281ヶ寺となっています。宗派別寺院数では圧倒的に真言宗が多く(114)、2番目に曹洞宗(44)、3番目に浄土真宗(36)、日蓮宗(28)、浄土宗(13)、時宗(4)、臨済宗(2)、天台宗(2)、単立(36)・その他(2)合計281ヶ寺。
越後に比べ「単立」寺院が多い。(「単立」とはどの宗派にも属さず、お布施や寄付で成り立つ寺院)。また、明治維新時に寺院数は539ヶ寺ありました。
維新政府の北陸地方担当で「泣く子も黙る」と恐怖された長州藩出身の奥平謙輔は佐渡は寺院が多すぎるとして80ヶ寺に減らす改革を断行しました。しかし余りに短兵急に過ぎたため、反感を買い廃仏毀釈方針は頓挫しました。その後島内
各所で檀家の必死の復帰嘆願が認められ、現在の寺院数にまで復旧した過去がありました。
では佐渡に真言宗寺院が突出し、なべて寺院が多い理由は何なのでしょうか。
1佐渡には信心深い人が多かった。
2経済的要因として農業、漁業、林業、畜産に加え金銀山の開発、西回り航路の北前船の海運業が盛んで、比較的裕福な檀家が多い。
3歴史的要因として大宝年間に律令制度が整い、「佐渡一国」の国府に国衙(こくが−行政庁)が置かれ、聖武帝による国分寺設置令により佐渡国分寺が創建された。 |
「律令」の刑罰として「遠流」(おんる)の地となり、多くの貴人(順徳上皇、日野資朝、日蓮、世阿弥等々)が配流(はいる)されました。鎌倉時代には地頭代の本間氏が相模国から入国し、自ら開基となり菩提寺を創建し、戦国時代には上杉景勝が豊臣秀吉の許可を得て本間氏を攻略して佐渡統一と真言宗への改宗政策を進めました。
徳川時代には幕府天領となり、金山開発が幕府財政を支えることになりました。このように人、集まるところには必然的に寺院が創建され、他国に類を見ない多数寺院の島となったという訳です。
(俳句)世阿弥作鬼面を蔵す秋の寺
(俳句)身にぞ沁む世阿弥手書きの一書簡 |
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立派な山門です。47番正法寺 |
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世阿弥作の鬼面(大べしみ) |
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集合写真 朝一番のいい顔で 47番正法寺 |
世阿弥自筆の便り文 |
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小さなお寺さん 48番世尊院 |
年代めく五輪塔 49番種徳院 |
長い参道 50番法幢寺 |
51番慶宮寺は順徳上皇の第一皇子慶子(よしこ)女王が生涯を過ごした寺で、今も多くの末寺を抱える大寺です。
(俳句)廃帝の皇女にゆかりの秋の寺 (俳句)大寺に木の実拾ふも旅心
(俳句)大和尚御法話聞くも旅心 (俳句)刈田風真言密の一末寺
(俳句)祖師堂の台座を廻し秋惜しむ (俳句)行く秋の苔むす段の磴を踏む |
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和尚さん大熱弁 51番慶宮寺 |
苔の石段を 八祖堂へ |
剥落の八祖堂(県指定文化財) |
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怖いくらいの急階段 |
回転式厨子は珍しい |
昼膳は豪華海鮮丼 |
52番・真禅寺は今日の先達を勤められた御住職の寺。地元ならではのお話をいろいろ聞かせてもらい、Tリーダーさんのおかげで思い出に残るいい旅ができました。
ありがとうございました。(おわり)
(俳句)剥落の紅殻塗りの秋の堂
(俳句)山寺に皆で鐘撞く暮の秋
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先達さんは御住職 52番真禅寺 |
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文覚上人ゆかりの古刹 |
煩悩の鐘を撞く |
宝物蔵がある歴史 |
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廃寺復活の由緒寺 54番法蔵寺 |
慶宮寺の大和尚再登場 56番普門院 |
普門院は慶宮寺の末寺 |
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