≪コースタイム≫
≪4/15≫
白岩・七浦観音像(11:00)=田の浦駐車場(12:00)…開ノ木平のアトリエ跡(12:20)…銅山神社…旧銅山道堰堤付近(14:00)…(往路を戻る)
≪4/16≫
県営陸上競技場(10:00)…県民会館前庭 (10:30) |
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≪紀行文≫ |
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〜〜〜開ノ木平の銅山遺構と早川亜美氏のアトリエ跡を訪ねる〜〜〜 |
4/10に参加した会山行多宝山の行き帰りに目にした旧銅山道の遺構が気になり再度現地を訪ねました。
岩室村史、間瀬郷土史によれば大正の初め開の木平に間瀬銅山に働く鉱夫の村があって270人余の人が暮らしていました。
シーサイドラインの田ノ浦駐車場はその昔は間瀬銅山の飯場跡でした。左手に田の浦温泉とその上に古いリゾートマンションの脇を通り未舗装林道を進むと右手に廃屋が現れます。その辺一帯を開の木平といい、昔鉱山事務所や鉱夫の長屋が立ち並び、村がありました。
廃屋の先のカヤトの原に付けられた踏み跡を辿ると、宝川沿いの一段下に小広場があり、そこに制作途中に放置された石のオブジェが残置されていました。その中に朽ち果てた大型の火焔式土器がありました。この火焔式土器にまつわる逸話を地元の人に聞きました。製作者は新潟市出身の彫刻家早川亜美氏で今から57年前、昭和39年6月に開催された新潟国体の聖火台として採用されました。
東京オリンピックに先駆けて開催された国体は成功裡に終ったその5日後に、忘れもしない新潟地震が起きました。
地震被害により大破した聖火台をここに運び修理を施したそうですが巧くいかず、県との協議で再制作したのが今の県営競技場に鎮座する聖火台だったのです。そういう経緯で以来ずーっと放置される結果となりました。
故早川亜美氏の作品は今も県民会館前庭にある「みちびきの像」と白岩の里の七浦観音像に見ることが出来ます。
故早川亜美氏は開の木平に「芸術村」の建設に奔走していました。戦後、銅山閉山後の間瀬は皆貧しく、男は「間瀬大工」として漁師は出稼ぎに出なければなりませんでした。田の浦温泉とリゾートマンションと一体化して芸術村が軌道に乗れば雇用が生まれ、出稼ぎに出なくてもいいようにと願いからでした。
アトリエで作品制作に没頭し、日に2度田の浦温泉に飯を食いに来ていた。食事代に能面の小面(こおもて)2頭(かしら)を置て行った。と宿の女将が言っていたとは地元の人の話でした。その後亜美氏は体調を崩し、芸術村は実現しないまま廃屋と苔むしたオブジェだけが残ったのでした。
ふらりと出かければ57年前にタイムスリップできそうです。あなたも出かけてみては如何でしょうか。
(俳句)みそなはす魚籃観音春の海 七浦観音像
(俳句)鉱夫村ありしはここら木の芽風 開の木平 精錬所跡
(おわり)
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天保三年子辰年 銅山師の碑 |
宝川の不動滝 |
七浦観音像 |
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奥に銅山神社 |
崩れた石組 |
銅山神社の参道 |
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銅山神社の境内 |
苔むした蹲(つくばい) |
亜美氏のアトリエらしい |
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この奥へたどると… |
オブジェ群 |
朽ち果てし火焔式土器? |
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破損被害の初代聖火台 |
制作途中だった?オブジェ |
県営競技場の2代目聖火台 |
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ズームアップ |
県営競技場のピッチ内 |
県民会館前庭のオブジェ |
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