≪紀行文≫ |
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≪11/13≫
平等寺薬師堂の屋根の葺き替えが終わった聞き、堂内の落書を見ようと訪ねました。御館の乱で雷城攻防戦に敗れた会津芦名兵が敗走して途中、岩谷平等寺の薬師堂に立て籠った時に書いたという落書は国の重文になっています。(写真1〜8)
天正6年小川荘(こがわのしょう)の武士たちは三郎景虎方を支援して景勝方の菅名荘に攻め込んだものの敗北、50名以上の戦死者を出したということが書いてあるようでした。攻め込んだのは雷城に最も近い小川荘石間城の小田切氏一党だったようです。小川荘は現在の阿賀町一帯にありました。 |
旧東蒲原郡は明治期に新潟県に編入されるまで会津領でした。会津では小田切氏は金上氏から出た芦名氏一門とされています。
系図によると(会津鑑巻四四所収藤倉金上系図)金上氏を称した盛仁には2人の子があり、兄の正茂は蘆名家の家老で津川城主を務め、弟の政基は赤谷に築城したといいます。
その8代目祐義の駿河(守)政隅は細越に住したと伝えられます。(新編会津風土記)
小田切氏は赤谷を起点として旧三川地区に代を重ね、各地に拠点を作っていったようです。 |
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新調なった茅葺屋根 |
美しい! |
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落書の一部 |
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薄れて読めません |
絵になります |
奥阿賀の方三間の冬の堂(俳句) |
≪11/14≫
R290を浦交差点から旧殿様街道を走り上赤谷集落の不動橋バス停前に停車しました。
滝谷集落の背後に紅葉の要害山(旧菅萱城290m)が見えました。
街道の西前方に関ヶ峰(旧赤谷城205m)が見えました。
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関ヶ峰・赤谷城跡 |
要害山・笠萱城跡 |
城主は小田切三河守で要害山城ではとうてい上杉軍を防げないので、急ぎ関ヶ峰に築城したと新編会津風土記にありました。
景勝軍は赤谷城より南に回り込み、赤谷城を見下ろす高台に陣を敷きました。
上赤谷の街村を上り詰めた丁字路を左に入ると「景勝清水」の湧水に出ました。力水を得て戦に勝利したと由緒にありました。 |
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名水です |
戦勝由緒書き(漢文です) |
次に細越の駿河の館(たて)跡を訪ねました。会津鑑(かがみ)には細越の地はもと小田切と呼んだとありました。
駿河館跡と伝える所には僅かばかりの土塁が残っていました。
新編会津風土記によると古館のすぐ南の山の上には地元で城山とよぶ館跡があり、小田切将監が住んでいたようです。
(上野山194.9mの尾根上の一画でしょうか。) |
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細越の駿河館(たて)跡 |
土塁が残っています |
川口に出てR49を麒麟山の津川城跡に向かいました。
麒麟山の麓には城下町が出来るほどの場所がありません。麓の麒麟山公園駐車場から常浪川に沿って遊歩道が整備されています。
杉林の中に侍屋敷跡の案内杭があり、進むと急な石段を上り二の曲輪を経て実城(本丸)跡に出ました。 |
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金上稲荷神社 |
麒麟山城址碑 |
展望台から阿賀野川と常浪川が合流する辺りに赤い橋とカナベラ山と白髭山の眺めが見事でした
R49を新潟方面へ走り阿賀の里の信号交差点を右折して石間集落を訪ねました。
集落入口に曹洞宗正壽寺がありました。
康暦(こうりゃく)の頃仏法に帰依した小田切弾正が集落の西方の六堂沢にあったのをここに移築したといいます。
弾正は蘆名直盛の家臣で石間、岡沢、焼山、太田、古岐の五ヶ村の領主だったと伝えられています。(会津鑑)
斜面に沿って上ると頂上付近の小広い台地に出ました。何も遺構はありませんが弾正の館だったかもしれません。
その直ぐ上を磐越道の高架が走っていました。 |
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カナベラ山が鋭い |
狐戻しの要害 |
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古刹正壽寺 |
小田切弾正の館(たて)跡 |
今日は旧小川荘の埋もれた史跡を訪ねて往年を偲んでみました。(おわり) |
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