≪紀行文≫ |
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〜〜〜上杉戦国時代の越後国下越、中越地域の史跡を巡りました 〜〜〜 |
≪10月9日(金)晴≫三条島之城跡(さんじょうじまのじょう)、後須田城跡(うらすだじょう)
三条島之城跡を訪ねました。三条城の起源については諸説あるようです。平安時代中期に京都三条に住み、近衛の左衛門府に勤めていた橘左衛門尉定明という武官が越後に下向し、築城して一帯を統めました。
橘氏は京都三条を懐かしみ城地を三条と呼び、自らも三条氏を名乗りました。三条島は信濃川、五十嵐川、中之口川の合流地点に出来た中州で舟運の集積地として栄えました。 |
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榛の木繁る三条島 |
今はオートキャンプ場に |
むぐらの中に三条城跡の碑 |
その頃奥州に起きた安倍氏の反乱(前九年の役・1051年)が源義家に鎮圧された後、安倍氏の郎党黒鳥兵衛が残党軍を編成して越後に乱入する事件が起きました。越後擾乱に巻き込まれて三条城は落城し、三条左衛門も悲運の最期を遂げたと云われます。
鉄製兵具の不足が敗因との教訓から、その後鍛冶の町になったとか。 |
時代は下り戦国時代、上杉謙信の相続を争った景勝の御館の乱の勝利に貢献し、論功行賞で抜擢された甘粕景持が城主を務めました。関東大震災後に起こった甘粕事件の甘粕大尉の祖先にあたる人でした。
三条城跡の次に加茂市後須田にある須田城跡を訪ねました。
須田城は永禄3年(1560)須田満親によって信濃川左岸の自然堤防上に築かれ、現在の地蔵院境内一帯がその中心地と伝えられます。
須田氏は信濃国高井郡の土豪でした。武田信玄に追われ、越後国の上杉謙信を頼って蒲原郡須田村に至り、一帯を開拓して所領としました。
「信州侍中一覧(須田文書)新潟県史」によると、定納員数目録の知行高12,086石、軍役数725.5人と信濃国出身の家臣筆頭となり、上杉景勝に重用されて信濃国海津城主となりました。 |
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加茂市後須田(うらすだ)通り |
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古刹地蔵院が後須田城跡 |
山門奥の境内地 |
I隣はたわわにル・レクチェ畑が |
≪10月11日(日)晴≫ 種月寺、天神山城跡、巻城跡・館之城(たてのじょう)
久しぶりの秋晴の日、石瀬・種月寺の金木犀、銀木犀の香を聞きに出かけました。 |
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石瀬の古刹種月寺 |
寺紋は丸に十の字の島津紋 |
森閑と苔むす境内 |
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右に金木犀、左は銀木犀 |
銀木犀の香に酔いました |
新潟県の特別天然記念物 |
その後、丸小山公園から多宝山に登りました。途中スライドしたオバチャンが「山頂はすっごい人で、もうスッゴイ」と脅かされたら、腰が引けて天神山城跡で下山しました。天神山城主の小国氏は鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政とその妾菖蒲御前ゆかりの名族で、御館の乱勝利後に直江兼続の弟・実頼が名跡を継ぎ、景勝の命で大国但馬守実頼と改姓しました。(天正軍役帳「新潟県史」)によれば知行定高は9041石と直江兼続に次ぐ大身となりました。) |
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丸小山公園から多宝山 |
クルマバハグマが花盛り |
アキノキリンソウ |
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山城は険しい |
今はこれも恐い |
マルバシロヨメナ |
下山してから県道374号と県道296号の交差点・館之城(たてのじょう)にあるコンビニの駐車場に立ち寄りました。その一画に巻城跡がありました。古地図を見ると一帯は広大な平城でしたが、今その面影は全く想像できませんでした。
上杉謙信の相続に関わる御館の乱と、その後に起きた新発田重家の乱鎮圧をめぐる三条城、須田城と天神山城、巻城。上杉戦国時代の越後国下越、中越地域の史跡を巡る一人旅は終りました。 |
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巻城跡の由来書 |
昔広大な平城がありました |
静かに一人ランチしました |
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