≪紀行文≫ |
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上杉景勝が御館の乱に勝利した後も反抗を続ける神余(かなまり)氏の三条城、平賀氏の護摩堂城を鎮圧した後、いよいよ新発田重家の乱攻略の布陣を本格化させました。
そもそも新発田重家の乱が起きたのは御館の乱の論功行賞が景勝の旗本衆に手厚く、揚北衆に冷たかったのが原因と云われています。その頃の国内情勢をみると浅井朝倉軍を破った余勢で次は越中越後平定を狙う織田信長に呼応するように会津の蘆名氏が居り、これに内応した新発田勢が内乱を起こしたのでした。
地の利を生かして布陣した新発田軍に対し先陣を務めたのは同じ揚北衆の水原氏、菅名氏でした。
激戦地となった法正橋の地を訪ねました。
天正10年(1582)9月25日に起きた法正橋の合戦は、浦城と五十公野城の間に陣を張った景勝軍の退却に乗じた新発田軍の追撃戦となりました。現在の新発田城カントリーがある城山の一画に浦城がありました。当時一帯は低湿地で、深田の隘路で地理を知った新発田勢の追撃を受け、景勝側は水原満家、菅名但馬守(綱輔)等名だたる将が打ち取られ、景勝も危機に瀕し惨敗を喫したのでした。
天正10年には夜空に2つの彗星が出現したり、金環日食があったりと世人の不安が募る中、6月2日に本能寺に変が起きました。この事件を契機に織田信長の後ろ盾を失った新発田勢が劣勢に転じ、その後の戦国地図が大きく変わることになりました。 |
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昔は深田の一本道 |
近くの禅寺法正寺に由来 |
ここに浦城ありき |
時計を戻して、天正6年(1578)上杉謙信が急死して後継者を争った御館の乱で、景虎側に付いて菅名荘に侵入した蘆名軍は雷城の菅名氏に撃退され、岩谷平等寺の薬師堂に立て籠りました。当時菅名山塊の東側(旧東蒲原郡)は蘆名領でした。
蘆名氏の将兵が書き残したという落書を見に阿賀町(旧東蒲・三川村岩谷)を訪ねました。
折悪しく、わら屋根の葺替工事中で堂内は立入禁止でした。落書きは戦国当時の状況を知る貴重な資料として県の指定文化財になっています。 |
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現在屋根葺き替え工事中 |
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手前ホウキブナ奥マンダロク山 |
みやげもの店です |
温泉饅頭買いました |
やむなく次に、菅名氏館があった大蔵集落に向かいました。謙信配下の武将の軍役帳に菅名氏が載っています。(出典・「上杉軍役帳」五泉市史資料編)鑓45丁・手明(徒武者)10人、鉄砲5丁、大小旗5本、馬上8騎、これに長子菅名孫四郎が同心として鑓2丁、鉄砲1丁、大小旗1本、馬上1騎となっています。併記する平賀氏、新津氏と比べるとやや劣るようです。
法正橋合戦での菅名綱輔の戦死は菅名氏にとって大打撃でした。 |
天正12年4月の三条城将甘粕氏から景勝への報告では「孫四郎は若輩なので」「菅名但馬守病死に依り丸田差置かれ候」とあり、丸田周防守が菅名綱輔の遺領を継ぎ、菅名荘を取り仕切ることになったようです。
菅名氏はその所領のほとんどを失い、孫四郎に83石だけが与えられて、不動堂山麓の柄沢城で悲運をかこっていたようだと市史にありました。 |
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大蔵集落内 |
昔柄沢城がありました |
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不動堂山がみえました |
菅名荘は稲刈真っ最中 |
禅寺永谷寺入口 |
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寺紋は尊王菊水紋 |
鎌倉時代からの線刻塔婆群 |
雷山登山口へ300m |
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菅名荘惣社矢津八幡宮 |
境内より菅名連山が真正面 |
雷山城を近望 |
孫四郎は長じて景勝に近侍し会津移封後は2000石をあたえられ大身となりました。米沢藩の名家として代々続き、その裔は現在に至ると云います。
名峰菅名岳が聳える菅名荘を訪ね、菅名氏に思いを馳せる旅となりました。(おわり)
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