≪紀行文≫ |
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御館の乱に勝利した上杉景勝は次に揚北衆の新発田重家の乱鎮圧の布陣を木場城、護摩堂城に敷きましたが、亀田はどうだったでしょうか。 新潟県の神社仏閣、伝承等をまとめた「温故之栞」(おんこのしおり・明治20年代刊行)によれば「城所、手代山に古城跡があり、小山の頂上はおよそ2000坪の広さで空堀が僅かに残っている。この城は上杉家臣団の荒木五郎左衛門為久の城として続いたが、天正年間の御館の乱で景虎側についた荒木為久は景勝軍に攻められ、一族郎党を従えて五頭山の麓の村杉へ落ちのび、土地の開墾をすることになった云々」とありました。
亀田町の言い伝えでは「村杉に昔荒木堂があり、村杉には荒木姓が多いが村杉の荒木はもとは亀田から行ったものであるらしい」と。
歴史学者の司馬遼太郎は「街道を行く」(潟の道)でー低湿地のために海抜1メートルでも隆起している砂地があるとそこをヤマというーと述べていますが、亀田郷の人々は微高地の砂丘を「ヤマ」と呼び居を定めました。
伝承の人物上杉の将荒木為久の居城と関連して城山・城所(本城)手代(てしろ・出城)山の地名が伝わっています。
茅野山は標高6、7mで水田より高く、殊に大蔵神社の境内はさらに一段高くなって周囲を見渡せる高台です。伝承によれば昔、山上に蔵があって鉄くずを出土したそうです。大蔵神社の隣りが本慶寺(ほんきょうじ・浄土真宗大谷派)で山号は「養海山」(=「要害山」)という言い伝えがあります。低湿地の自然堤防に成立した村の要件は草分け(庄屋・開発者)の家の隣りに浄土真宗の寺と諏訪神社が出来、それを囲むように村人の家が並ぶ共通性が認められるというのです。 |
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熊野神社は荒木城跡? |
茅野山大蔵神社は小高い山 |
結構急です |
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大社(やしろ)です |
大正9年諏訪社と八幡社が合併しました |
隣の本慶寺の大甍(いらか) |
船戸山会館に佐藤暁華翁(ぎょうか・俳号)の句碑「足底の水がつめたし深田植」を訪ねました。
新潟医科大学の外科学教授中田みづほ先生を主宰とし、後に法医学教授高野素十(たかのすじゅう)先生が加わり、昭和4年に俳誌「まはぎ」が発刊されました。編集発行人は農民俳人の佐藤暁華でした。
戦前の亀田郷は稲の刈取の後には地図にない湖が出来たといい、深田、泥田でした。「亀田のめだかが鯉にまでなった。」とは、舟農業の春夏秋冬に吟行し、俳句を指導した新潟医科大の教授連と亀田農民の俳句交流が亀田郷の農民を俳句名人に育て上げ、俳句文化を醸成しました。
花鳥諷詠の俳誌「ホトトギス」の高浜虚子先生は亀田に2度を訪れ、船戸山の通心寺で俳句大会が開かれました。「亀田は写生俳句が日本で最後に残るだろう。」と予言したとか。
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今年も豊作 |
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昔荒木城がありました |
紅花先生の句碑(読めません) |
亀田の古刹 |
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船戸山の中心部 |
「足底の水がつめたし深田植」 |
亀田俳人の拠点・船戸山会館 |
俳誌まはぎ発刊より90年を経た今も、写生俳句は亀田俳人と新潟医大俳句部の人たちや全国に広がった素十俳句は門人たちに受け継がれ、健吟を練る日々です。今日は亀田の旧蹟と俳句句碑を訪ね、昔に思いを馳せてみました。(おわり)
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