≪紀行文≫ |
|
|
大関阿波守が城主を務めた出城(別名田中城)跡を訪ねました。
平成2年の県の調査によれば隣接する現升潟小学校の敷地内に城郭があったことが判明しています。
中世後期の蒲原地方は大小の潟湖が点在して低湿地が続く水郷地帯でした。
升潟の田中城を起点に味方村の吉江館と木場城を結ぶ正三角形の防衛線を形成し、新発田重家の乱に際しては前線基地として重要な役割を果たしたことが碑裏の由来書にありました。
田中城は上杉景勝の会津移封に従い役割を終えた木場城と共に廃城になりました。ここより西へ自然堤防上に出来た善光寺村を訪ねました。途中出会った村の人に行き先の道を聞いたら親切にも自転車で先導してくれました。 |
|
|
|
畑の中の城跡碑(碑陰に縁起) |
幾多物語を秘め大関城終焉 |
親切なおじさんが道案内を |
大関阿波守の女(娘)桂姫が勧請したと伝わる縁起によれば奈良天皇の御代、弘治元年(1555)に信濃善光寺より授与された本尊が越後国の動乱により所在不明となっていたのが、享保13年(1728)に南蒲原郡鹿峠村(現三条市鹿峠)の浄土宗秀翁寺(ーR290を加茂へ向かう鹿峠付近に秀翁寺は現存しています。)より当地に迎えられました。
如来堂造営は明和2年(1728)に開始され、同8年(1778)に完成しました。如来堂安置の本尊は長野の善光寺と同じ一光三尊(一つの光背に中尊の阿弥陀如来、左右脇侍の観音、勢至菩薩の三体が安置)のいわゆる善光寺式三尊です。この間延べ1万人が動員され、約500両を掛けた大工事は越後善光寺として有名になったと由緒書にありました。
(俳句)ゆく夏の田中に残る古城の碑
(俳句)善光寺佛が村の名蝉しぐれ |
|
善光寺村の善光寺 |
|
|
|
地蔵堂の大地蔵佛 |
総欅造の屋根葺は唐様 |
扁額は金文字揮毫 |
|
|
|
向拝彫刻が精緻で豪華 |
木鼻飾りが素晴らしい |
無量寿佛銘文(読めません) |
今年7月2日未明に関東地方で巨大火球が目撃されましたが、新潟県にも昭和37年4月14日夕方4時に隕石落下事件が発生していました。その西米納津の落下現場に向かいました。台座に飾られた漬物石大の隕石(レプリカ)は無残にもカラスの止り木と化し糞まみれになっていました。
(俳句)青田中隕石落下記念の碑
|
|
|
|
カラスの糞まみれ隕石 |
隕石落下の記念碑 |
大宇宙よりの使者隕石 |
かつて西蒲原一帯は鎧潟や中小の潟湖が点在していました。冬には鴨や白鳥が飛来し、潟漁や鴨猟が盛んでした。しかし毎年梅雨の時期に大雨が降ると溢水して水害が繰り返されました。鎧潟干拓は幕藩時代長岡藩により文政年間に始まり、戦後は国営事業として昭和34年(1959)から昭和43年(1968)までに全面干拓されました。これにより240ヘクタールもの農地が造営され現在恩恵に預かっているのです。 |
興農館高校の廃墟の隣りに農業大学校がありました。農大前の干拓道路を走ると排水機場の手前に干拓記念碑が立ち並ぶ威容に立ち止まりました。
(俳句)蝉しぐれこちら見てゐる牧の牛
(俳句)干拓碑ならぶ青田に早稲の風
帰路はかつて広大な鎧潟の畔に面していた裾野の村落に沿い青田波の中を車を走らせました。(おわり) |
|
|
牧場の牛が物憂げに |
鎧潟ありきの碑 |
|
|
|
興農健児の碑 |
鎧潟干拓完成の碑ならぶ |
昔鎧潟あり今大青田 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|