≪紀行文≫ |
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〜〜〜今日は色々と郷土史を学ぶ一日となりました〜〜〜 |
「ここを本拠地として15代およそ370年間栄えた新津氏はこの地方唯一の武将で実質的に新津の歴史は新津氏により始まった」と由来書のある標柱が一本、新津自動車学校の西側道路に面してありました。
城は自動車学校の敷地北方一体に築かれたといいます。15代新津勝資(かつすけ)の時、上杉景勝の会津移封に従って廃城となったため、遺構は今では何もありません。
磐越西線に沿い小口の若宮神社を訪ねました。承久3年(1221)に起きた承久の乱に連座して佐渡へ配流となった順徳帝の第二皇子広臨親王(ひろみしんのう)は父帝への追慕の念深く、従者12人と佐渡に渡ろうとしましたが警護厳重で思い叶わず止む無く小口に潜伏しました。此の事が幕府方の知るところとなり、能代氏に追い詰められて自害したのは貞應2年(1223)の事でした。生き残った従者が京に帰り、内裏に報告されました。後堀川天皇より勅許を得て、能代氏の居館跡に若宮神社が建立され、広臨親王が祀られました。
(俳句)廃帝の皇子と伝ふる梅雨の塚
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標柱1本の新津城跡 |
江戸中期建立の仁王門 |
鉄くぎは1本も使われておりません |
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広臨親王を祀る堂 |
親王廟の五輪塔 |
貞應二年癸未(みずのとひつじ)11月の碑 |
西山丘陵に沿って県道を走り、門前村の式内社中山神社に参拝しました。
勧請は延暦3年(784)に遡り、護摩堂城主の庇護、上杉家の祈願所として庇護、江戸時代は新発田藩の崇敬社となって社領寄進と庇護を受けた大社(おおやしろ)でした。
(俳句)萬緑の奥その奥に式内社
(俳句)青々と阿吽狛犬苔の花 |
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中山神社入口 |
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苔むす石段 |
つくばいに滾々と石清水 |
長い長い石段 |
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ようやく拝殿 |
向拝欄間の彫刻が素晴らしい |
苔むす狛犬 |
門前登山口から菩提寺山に登りました。矢代田への往還佛路峠は別名法華寺越といいました。「菩提寺山の山頂に法華寺の修験道場があった。室町後期、中世日蓮教団が越後に身延門流を親展し真言密教寺院が法華宗に改宗された。慶長5年(1600)8月、徳川方堀直清の三条城が上杉遺民3万余の攻撃を受け落城に瀕す。これが救援のため森方の与力溝口秀勝、村上義明三条城へ赴く。これを阻止するため上杉遺民菩提寺山に布陣「両軍の兵と抗戦すること三昼夜にして遂に敗衄(はいじく)し、寺院もまた焼亡せり」と小屋脇の由来書にありました。
山頂で当会の仲間の2女史にお逢いました。二人ともこの時期にあっても登山意欲旺盛とお見受けしました。
(俳句)その昔遺民一揆の山青葉
(俳句)ほととぎすしきりに鳴いて梅雨深し
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佛路越の道しるべ |
法華寺越えの峠 |
昔法華寺宝塔が並んでいた |
下山後五泉八幡宮を訪ねました。
「甘粕備後守城跡」の石碑が建っていました。
上杉景勝の時代には最前線の重要基地としての五泉城があったとされる場所でした。 |
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今の八幡宮は五泉城跡 |
甘粕備後守城跡の碑 |
最後に金津の堀出神社を訪ねました。
社伝によれば金津城築城の時に地中から男女の神像を得て城中に伊邪那岐尊と伊邪那美尊を祀り、堀出大神を奉称したとあります。
承久の乱を記述した吾妻鏡の中に越後武士金津蔵人資義の名前が登場します。
今日は色々と郷土史を学ぶ一日となりました。(おわり) |
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金津堀出神社の大鳥居 |
拝殿の奥に本殿が |
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