会山行紀行文 2020年
6/17 6/21 6/24
曜日、天気は下記
(やひこしんわきこう)
弥彦神話紀行

御神廟634m、多宝山633.7m
参加者 (紀行文) 2011 Y/O
単独
(男性1名) (写真) 2011 Y/O
≪コースタイム≫
下記記載
≪紀行文≫
〜〜〜壮大なドラマが隠されていたことに気づかされた旅でした〜〜〜
≪6月17日(木)晴≫  弥彦神話紀行 御神廟634m、多宝山633.7m
〔コースタイム〕
 祓戸神社 (9:50)…万葉歌碑(10:05)…本宮境内・茅の輪くぐり(10:05)…(表参道経由)…9合目(12:40)…御剣峯の御神廟(12:50)
…(往路を戻る)…園地(12:30)…多宝山(13:50-14:00)…(往路を戻る・表参道経由)…下山・大鳥居(15:30)
 [本文]
 コロナ禍で年中行事が軒並み中止となる中、早くも弥彦神社に夏祓の茅の輪が出たと聞いて出かけました。先ず祓戸神社に参拝しました。弥彦山を詠んだ歌2首が万葉集に収められています。
 「伊夜比古おのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼ降る」

 本殿がなく御神体の三輪山を拝むのと同じように詠み人は弥彦山を「おのれ神さび」と崇め拝んだことしょう。

 拝殿前の境内に設えられた茅の輪くぐりにコロナ退散と無病息災を祈願しました。
 門前町は閑散と
祓戸神社はいつも最初に 鼓楼の前の歌碑 茅の輪くぐりは順番に

 本殿参拝の後山頂の御神廟に登りました。御剣峯の鳥居脇にも「おのれ神さび」の万葉歌碑が建つています。山頂の磐座には御祭神の天香語山命(あめのかごやまのみこと)と妃神の熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)が祀られています。
 祭神の天香語山命は父・饒速日命(にぎはやしのみこと)と天の岩船といわれる巨岩に乗って降臨したと伝えられるのですが、これに異を唱える者のあり。

 阿賀野市出身の歴史地理学者・吉田東伍は彼の大作「大日本地名辞書」に崇神天皇の代に諸国平定のために北陸高志へ派遣された四道将軍の一人・大彦命(おおひこのみこと)ではないかと推察しているのです。

 戦前には弥彦神社の祭神論争があったといいます。奥宮参拝の後、9合目レストラン前に戻り多宝山へ足を延ばしました。

 園地方面へ向かう人は皆無で、登山道は草茫々で草のトンネルを黙々と宝山に登りました。
御神廟も閑散 I御神廟入口の歌碑
今日は多宝山も登りました 主天香語山命と妃神が眠る廟 今日は遠目がよく利く日
パトロールが必要かな 草茫々のトンネル道 十宝埋納地も草茫々

≪6月21日(月)くもり≫
〔コースタイム〕 
 大己貴神社(10:00)=妻戸神社(10:50)=浜防風自生地(11:20)=国上寺・香語山(11:40)
[本文]
 弥彦神話にいう「安麻背」という凶賊が地元民を苦しめていたのを弥彦神が武力で討伐したという話です。
 「あまぜ」の「まぜ」が「間瀬」の由来とか。崖松の麓に大己貴神社(おおなむちじんじゃ)が鎮座しています。大己貴神は別名は大国主命です。討伐された安麻背とは出雲系の国津神ではなかったでしょうか。そうすると今年角田山で発見された前方後円墳の主も出雲系の国津神かもしれません。
 野積集落からスカイラインの支線を上り、妻戸神社に参拝しました。野積の氏子は熟穂屋姫命を親しみを込めて「おつまさま」と呼びます。
 苔むした石段を上り、2つ目の鳥居をくぐると御神田に出ました。四隅に幣を立てた青田がありました。
 氏子連は「妻戸妃神会」を組織して育てた稲米を奉納しているそうです。
 弥彦神が野積浜に上陸されてから、詔により社殿造営がされる和銅4年(711)まで何か所かに滞在されたとされるその一つ、国上寺の境内に鎮座されていた場所に向かいました。
 本堂から五合庵に下る山道の左側に小高い台地があり、案内板には「香児山」とありました。登ると小さな祠があり、「初代、二代がこの地に鎮座されておりましたが、夏になると山が浅く水が枯れてしまうため、現在の地に三代目から鎮座されました。」と由緒にありました。
弥彦神が滝行された浜滝 浜滝の由緒書 大己貴神社は出雲神
弥彦神上陸地への道は通行止 妻戸神社入口 おつま様の御神田
本殿は奥の奥 よく整備された境内 「野積の宝」ハマボウフウ
一面ハマボウフウの山 神の御遷地の案内板 初代、2代の天香語山命の御座所

≪6月24日(水)晴≫
〔コースタイム〕 
 二田天物部神社(11:50)=勝見アリーナ・二田・弥彦両神上陸地の碑(12:20)=出雲崎石井神社(12:50)=弥彦城跡・高橋左近光頼の墓(14:00)
[本文]
 R116で略2時間、柏崎市二田の二田天物部神社(ふただあめのもののべじんじゃ)を訪ねました。由緒によると出雲崎に上陸後、浜辺に住む地を探した時、二田を献じて祝する者があったので、そこに居を定め二田と称したと。
天香語山命の父・饒速日命が降臨の際、天香語山命を含め32神が供奉していました。その下にさらに25の物部の武将たちが仕えていました。
 32神の筆頭が天香語山命で、物部の筆頭が二田物部命でした。神武天皇の命により北陸に派遣された二神が出雲崎に上陸した地を訪ねました。
 海沿いのマリナーを横切るR352の山手に「弥彦 二田両神社上陸地」の石碑がありました。大和朝廷の威光が及ぶ前、出雲の国津神と越国の二大種族間には日本海の交流によって文化圏が既に出来上がっていたところに割り込む訳ですから大変な苦労をされたのだと思います。
 海岸道路を走って出雲崎の町に入りました。良寛さんの誕生の地と、祭神大国主命の来臨伝承が残るという石井神社に参拝しました。
 寺泊経由で弥彦に戻り旧弥彦城跡に登りました。天神砦の一廓に高橋左近光頼の墓が祀ってありました。明治維新に神仏分離令により
廃仏毀釈が起きる200年も前に神仏分離を行った神主でした。

 江戸中期に活躍した京都吉田神道の神道家・橘三喜(たちばなみつよし)は全国の神社に影響力を持ち4700人の門人がいたといいます。
 当時は神仏習合で本地垂迹説により弥彦神の本地は阿弥陀如来とし、別当職の神宮寺がありました。
 反本地垂迹説を主体とする吉田神道に傾倒した旧神主高橋光頼は元禄元年に神仏分離を断行して、神宮寺の社僧を追放しました。ところが追放した社僧が幕府寺社奉行に訴え、その結果、元禄10年(1697)逆に追放処分の裁定がなされて、神社は元に戻されたといいます。

 (俳句)
 旧祢宜の木陰にひそと梅雨の墓 石南

 物部神社は式内社 I豪壮なお社 
 二神御上陸地の碑  マリーナと海を振り返る 良寛さんは何憶ふ 
 良寛さん生誕地  石井神社は急坂 大国主命が開いた出雲崎

 角田山の前方後円墳発見に端を発した弥彦神社にまつわる旧蹟巡りは、神代から現在に至るまで壮大なドラマが隠されていたことに気づかされた旅でした。

  6月23日の日報朝刊に胎内市の城の山古墳の記事と写真が載っていました。
 時期は古墳時代初め、天香語山命の話は検証のしようがなく不明としか言いようがない。とのことです。

 6世紀後半の崇仏闘争で曽我氏に敗れた物部氏ら神様氏族が地方へ逃れ活路を開いた。
 天香語山命もれっきとした物部系から、その折りに越後へ来た可能性がある。

(新潟大学小林名誉教授の談。「天香語山命」新潟日報社編)  
 旧神主高橋左近光頼の墓  23日の 日報の朝刊記事