会山行紀行文   古城跡巡りパート④
  5/29(金)晴れ  吉江館跡、木場城跡
  6/1 (月)曇り   水原代官所跡、羽黒優婆尊堂と華報寺
  6/8 (月)晴れ  新発田城跡、五十公野城跡
参加者 (紀行文) 2011 Y/O
単独
(男性1名) (写真) 2011 Y/O
≪コースタイム≫
 下記紀行文内に記載
≪紀行文≫
~~~古城跡巡りパート④~~~
≪5月29日(金)晴  吉江館跡、木場城跡≫
〔コースタイム〕
 木場八幡宮(10:30)=吉江館跡 (11:00)…埋蔵文化財センター(11:30)=木場城跡(12:00)

 JR上越新幹線の高架下の側道を燕三条に向かって走り、途中から広域農道に乗り中之口川に沿って集落内の道を味方方面に向かうと、中之口側左岸堤防の下の吉江集落(旧味方村)の吉江児童遊園の広場前に出て「幻の吉江館」の看板がありました。館跡の規模は旧笹川家住宅(国重要文化財)に匹敵するとのことでした。
 吉江氏は奥山荘の中条義周(よしかた)が守護代長尾能景(よしかげ)から吉江の地を賜り、吉江氏を称したことに始まります。やがて吉江氏は上杉謙信・景勝政権の中枢を担う存在になっていきます。
 「幻の」の意味するところとは。天正10年(1582)2月魚津城出兵の際の攻防戦では織田方柴田勝家を総大将とする4万の将兵に囲まれました。対する上杉方3800は籠城戦に入りました。多勢に無勢、打開のために本国の景勝本軍に援軍を頼みましたが、その年は御館の乱の論功行賞を巡って新発田重家の乱が起きました。織田方の支援を受けた重家軍が優勢で、武田軍を滅亡に追い込んだばかりの織田軍が信濃、上野の国境に迫り、景勝本軍は余裕がなくて援軍を送ることが出来ませませんでした。その結果、籠城軍の吉江氏以下12名の上杉方将兵全員が玉砕して果てたのでした。
公園の物見やぐら まぼろしの館です さて、想像できますか

 中之口川を流れに沿って川を下ると木場集落に着きました。「木場」の名は弥彦神社造営の用材を中之口川に集積したことに由来するようです。中之口川の自然堤防にできた大村で、現在はJR上越新幹線の高架下側道とバス路線が交差する場所が「宮のもり・木場城公園」になっています。村の鎮守・木場八幡宮の広い境内と一体化して城砦の模擬櫓が建っていました。
 「木場城跡」はここから2キロ西へ離れた、村はずれの田の畦に標柱が立っていました。戦国時代は湖沼に囲まれて容易には近づけない水城要塞だったようです。

 (俳句) 戦国の砦址(あと)とや青田波
 
ようやく到着。昔は水郷でした 親切なオジサンが案内してくれて 絶対着けない案内図

≪6月1日(月)くもり 水原代官所跡、羽黒優婆尊堂と華報寺≫
[コースタイム]
水原城跡(10:00)=優婆尊堂 (11:00)…賽の河原(11:40)=華報寺(12:00)=砂郷沢橋(12:30)=(往路を戻る)=新潟(14:00)

 中世水原城の遺構は何も残っていませんが、平成7年(1995)に代官所が復元されました。表門前には水原城館跡の石碑が建っています。
 水原城は揚北衆の一人水原親憲の居城でした。鎌倉御家人で白河荘の地頭に補された大見氏の末裔は有力国人として上杉謙信に従い転戦しました。
 天正11年(1583)新発田重家の乱で水原満家が討死すると水原氏の血筋が断絶することを惜しみ、景勝の命で庶家・大関親憲が名跡を継ぎ水原常陸介を名乗りました。
 上杉氏が会津に移封後は廃城となりますが、徳川幕府の天領となり代官所が置かれました。表門の前庭に杉原(すいばら)常陸介の碑が建っています。

 (俳句) 友二捨て念腹捨てし山みどり

 瓢湖から眺める五頭山の緑が濃くなりました。水原は著名な2俳人を輩出しました。石塚友二は石田波郷と俳誌「鶴」を創刊し、佐藤念腹はブラジルに移民して6000人の俳壇を築きました。瓢湖湖畔には残雪の遠飯豊を拝むように流浪の画家笠原軔の漢詩の碑がひっそりとありました。
巨大石碑 すいばらひたちのすけの碑 代官所は休館日
鴨もいない寂しい瓢湖 あやめが咲き始め 佐藤念腹のむかご句碑
蓮台野出土の阿弥陀佛 古刹の山号は五頭山 剥落の石仏群

≪6月8日(月)晴 新発田城跡、五十公野城跡≫
[コースタイム]
 新発田城跡(11:00)=福勝寺 (11:40)=五十公野城跡(12:00)=五十公野公園(12:40)=次第浜(13:40)=(往路を戻る)=新潟(15:00)

 青葉茂れる濠に映えて白壁の辰巳櫓があまりに恰好よいので1枚写真に撮りました。表門を潜ると保存会の人達が案内のパンフレットをくれました。今年PR年間なのだそうです。高土塁に上ると自衛隊の駐屯地が見えました。二ノ丸には戦前歩兵第16連隊があり、新発田重家の時代は激戦地となった「古丸」があった辺りです。

 (俳句)揚北(あがきた)の古城の杜の青葉木菟(ずく)

 新発田重家は初め五十公野源太治長と名乗り、兄の長敦と共に謙信の下で活躍しました。謙信死後の「御館の乱」で初め景虎方に味方しましたが、安田顕元(北条毛利氏で揚北衆の大見安田氏とは別系統)の調略で景勝側に寝返りました。景勝側の勝利に終わった御館の乱の論功行賞は景勝の旗本衆に手厚く、揚北衆には冷たいものとなりました。
 その年病死した兄長敦の跡を継ぎ、新発田重家を名乗りました。五十公野城主の家督は妹婿の長沢道如斎が継ぎました。
 長沢道如斎(義風)はそれまで三条城主として町奉行の任にあったので、三条城の所領も道如斎を通じて新発田重家に安堵されるものと期待していた所でしたが、結果は夫々の家督相続が認められただけに終わりました。
 調略に尽力した安田氏は板挟みになって自害して果てました。これを不服とした重家は妹婿の道如斎を誘って、新潟津の新潟城と沼垂城を横領して天正9年(1581)に景勝に叛きました。

 この年、武田勝頼を滅亡させた織田信長はその勢いで越後進行を目論見、新発田重家に助力します。はじめ調停を申し出た会津芦名氏も織田の威勢に押されて重家へ兵糧援助を申し出ました。隣国の援助を得て重家方の優勢が続きましたが、天正10年(1582)に起きた本能寺の変で信長が横死すると情勢は一変しました。その後一進一退が続き、事態打開を期して、天正15年(1587)に景勝が上洛して羽柴秀吉に臣従の礼を取ると天下統一戦として重家討伐の命が下りました

糧道確保の要の赤谷城が落ち、五十公野城が落城すると新発田城も陥落して、7年戦争の長きに及んだ新発田重家の乱はついに終結したのでした。上杉が会津移封後、入封した溝口公は新発田重家一党の将兵を手厚く弔いました。

 新発田の寺町にある禅寺福勝寺を訪ねました。山門前に新発田重家公の銅像がありました。山門をくぐると、脇に重家公の廟が祀ってありました。
辰巳櫓がカッコイイ 
10万石の表門 昔の「古丸」が駐屯地 辰巳櫓のアオバヅク
 秘中の秘だった「石落とし」  新発田重家公の像 重家公の廟 

 車を走らせて五十公野丘陵に向かい、五十公野城跡に上りました。夏草が生い茂り遺構はよくわかりませんでした。山頂の本廓には巨石の顕彰碑が建っていました。

 (俳句) 夏草の茫々として砦址

 戦国の山城跡を巡る旅は、越後国の歴史を知るいい機会になりました。(おわり)  
 五十公野城はヤブの中  五十公野城本廓跡  巨大石の顕彰碑
 二重堀切わかりづらい  ここが登山口 東中の体育館裏手から
 平日なのに結構な人出でした  菖蒲園のあやめ 睡蓮もきれいでした