≪紀行文≫ |
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〜〜〜笹岡の城跡と笹神村の俳人を訪ねて〜〜〜 |
水原から五頭山に向かって農道を走り、集落外れの小高い丘に建つ諏訪神社に着きました。境内は連廓式の笹岡城址の一画で、三廓に隣る二廓目に鑑洞寺(曹洞宗)がありました。
600年を経た今も大堀切、土塁や曲輪の遺構の残存状態がよく、主廓部分は公園化されています。
戦国期、武田信玄に北信濃を追われて春日山城の謙信を頼った村上義清父子に、「義」の人謙信は父には根知城将を、子の国清には笹岡城将の任を与えました。また断絶していた山浦上杉氏の相続を許し家臣団に加えました。
武田信玄が亡くなり、武田勢が甲斐に引き上げると、失地回復した国清は北信濃の海津城主となりました。次の城主となった上田衆の家臣今井源右衛門の墓が堀切の坂の下にひっそりとありました。当時周辺は湖沼地帯で水郷に浮かぶ大要塞だった筈です。水運が発達していた当時は、敵方の新発田重家の居城新発田城や新潟城へ地の利を生かして機動力を発揮した最前線基地でした。 |
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二廓目の社は丘の上 |
緑陰に古城主の墓 |
大堀切を本丸へ |
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土塁が高い |
本丸跡は公園 |
搦手門へ25メートル下る |
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樹高24m、幹周6.2m、樹齢450年 |
昔は土塁の下は船溜まり |
土塁の上の石仏群 |
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城の盛衰を見てきた仏たち |
空堀跡は猛ヤブ |
西ノ丸付近 |
次に式内社の旦飯野神社(あさいのじんじゃ)を訪ねました。旦飯野神社の前身は「山浦八幡宮」といい、城主山浦氏が神官を兼ねて庇護しました。閑散とした古城址と違い式内社はコロナ退散を祈願する参拝者で大賑いでした。3密を避けて早々に下山したら旧石水亭の念腹句碑に向かいました。 |
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旧笹神村は佐藤念腹と石塚友二という著名な俳人を輩出しました。念腹師は昭和2年30歳の時ブラジル移民として渡航しました。俳誌「ホトトギス」の高浜虚子が「畑打って俳諧国を拓くべし」の選別句を贈りました。 半世紀かかってブラジルに弟子6千人の俳壇を築いた人でした。
昭和36年に帰国して故郷に錦を飾った記念に石水亭前に「ブラジルは世界の田舎むかご飯 念腹」の句碑が建てられました。
石塚友二師は昭和10年俳人石田波郷とともに俳誌「鶴」を創刊し、編集に携わりました。 |
格式高い式内社 |
参拝客多し(神だのみ) |
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長い参道を登る |
御神体を拝む |
佐藤念腹師の生家跡 |
五頭登山にと、どんぐりの森の駐車場まで来てみれば溢れる車を見て、3密が怖くなりやっぱり止めました。誰にも遇わないだろうと「山彦通り」の句碑巡りに変えたのでしたが、句碑が並ぶ林道を占領するように群れる猿の集団に遭遇しました。
「耕牛の一歩一歩の見守られ 素十」 「ゴッホの黄ぶちまけしごと稔田黄 信一」素十先生と、信一先生の句碑をみつけました。
高野素十(たかのすじゅう)は我が素十門の創始者です。素十は俳号、ホトトギス派の師高浜虚子の直弟子で俳号は「素質十分」というので虚子自らが贈ったとか。信一先生は素十先生の直弟子で亀田第一病院の創業者です。
皆物故者ですが、素十門の弟子、孫弟子は全国に広がり、2千人の同人が現在も健吟を競っているのです。(おわり) |
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猿がいました |
高野素十先生句碑 |
信一先生は亀田のお医者 |
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