会山行紀行文 2020年
5/14(木)
晴れ
三条下田の山城跡巡り
栄雲寺城跡、高城城跡

92m      373m
参加者 (紀行文) 2011 Y/O
単独
(男性1名) (写真) 2011 Y/O
≪コースタイム≫
栄雲寺(10:00)…栄雲寺城跡(10:30=森町・長禅寺(10:50)…長山鉄塔(11:00)…たらのへつり(11:30)…高城山頂(11:50-12:20)
…(往路を戻る)…長禅寺駐車場(13:00)=新潟(15:00)
≪紀行文≫
〜〜〜三条下田の山城跡巡り〜〜〜

 R289とR290が交わる辺り下田郷原町の栄雲寺城跡を訪ねました。

 「永禄11年(1568)春、高城々主長尾遠江守藤景(ふじかげ)が府中(上越市)で上杉謙信の命で本庄繁長に討たれた報せは早馬で城下に知らされました。家老長尾外記入道興里(げきにゅうどうおきさと)は急いで城をかため、また出城であるここの、原の城と曲谷の城の堀を深くし逆茂木(さかもぎ)を造って守りました。
 高城攻めは栃尾の本庄実乃(さねより)が総大将で人面峠(ひとづら)から雪崩を打って原城に攻めかかりました。原の将士は勇奮激斗して懸命に戦いましたが多勢に無勢で、全員壮烈な玉砕を遂げたのでした。
 城跡の下にある栄雲寺で戦死した勇士の菩提を弔い家老の外記入道も同寺に祀られています。」(下田村文化財調査研究会)と門前の由来書看板がありました。

 永禄11年は織田信長が足利将軍を擁して上洛を果たした年でした。雪深い謙信支配の越後国にそんな事件があったのです。
 墓地の端から遊歩道を登ると、北西背後の尾根と東南先端尾根を堀切で断ち切って、標高92mの山頂に栄雲寺城跡がありました。
 現在は東屋とベンチが置かれて公園になっています。
 山頂の展望台から五十嵐保(ほ)の風景が広がっていました。五十嵐保とは下田の土豪五十嵐氏が五十嵐川周辺を新田開発した領地です。
 全国「五十嵐」の名の発祥地がここなのです。土豪五十嵐氏の衰微に合わせて領地分捕りに進出したのは下田長尾氏と古志本庄氏(古志長尾氏の代官)で、両者は領地をめぐって度々対立しました。
 謙信が上意討ちさせたのは栃尾城主本庄実乃の讒言によるもののようです。
 永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いの軍議中に長尾藤景が謙信の戦術を批判したことで対立するようになったと言われています。
 本庄実乃は謙信の若い頃から補佐役として仕え、信任厚い側近でした。村上城主の本庄繁長は秩父畠山党の末裔で、同性ですが別の家柄で
した。
別名は原城山城 赤の山門が目印 文字がかわいい
山頂堀切と懸け橋 五十嵐保と高城遠望 山頂は憩いの公園

 R289に戻り下田長尾氏の本城のある森町の高城城跡を訪ねました。
 高城は戦国時代、森町の元町を根拠地としていた初代長尾豊景により室町時代中期の応永33年(1426年)に築城されました。
 標高373m、東西に尾根が走り南北は急斜面で天嶮をなし、東西500mにわたって尾根をけずり、堀を割って造った曲輪(くるわ)や空堀土塁が残っています。(高城保存会説明書)

 長尾家累代の墓所がある長禅寺の脇が登山口で、三角点のある長山の登城路はヒメサユリの小径になっています。もうそろそろと期待してきたのですが、まだでした。嗚呼残念。でも山頂から眺める残雪の守門岳は実に雄大でした。(おわり)
 守門岳展望地  禅寺の偈頌  下田長尾氏の菩提寺
庫裡の脇から登山口 長山の鉄塔 残雪の守門岳が真正面
ヒメサユリはまだでした 左は断崖絶壁 天嶮の高城が高い
のろし台の岩場 空堀が現存 土塁が高い
山頂の本丸跡 空堀は急坂 あらためて守門岳が雄大
今日唯一の花でした