≪紀行文≫ |
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〜〜〜角田山妙光寺尾根古墳、菖蒲塚古墳、桔梗城跡と婆々杉を訪ねる〜〜〜 |
4月7日に訪れた「角田浜前方後円墳」調査状況の見分に一週間後の今日、会友のK氏と出かけてました。
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先ず古墳見学者の専用駐車場が出来ていました。墓場ルートの要所々々に案内板が付きました。整備された登山道には固定ロープも付いていました。調査現場は周囲がきれいに伐採されて、仕切りのロープと進入禁止の表示がされていました。
K氏は右まわりに、私は左回りに古墳の周囲を巡回してみました。只、これだけ整備が進むと見学者が押し寄せて、静かだった妙光寺尾根が踏み荒らされて様変わりするかもしれません。
点281mの城山の北面はカタクリも雪割草も盛りを過ぎました。
(俳句) 燃え尽きんと雪割草の花明り
宮の平尾根に合流後は山頂へ向かわず下山しました。
途中の鳥の子神明社の神池の水芭蕉が丁度見頃でした。
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見学用駐車場あります |
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もう墓場で迷いません |
尾根取り付き地点 |
ロープも付きました |
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結構急です |
もう入れません |
巡回路も出来ました |
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カタクリの花は終盤 |
ミスミソウの残り花 |
ニリンソウ今さかり |
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力の及ぶ限り咲きっぷり |
城山への上りは急 |
水芭蕉忌が見頃 |
下山してから竹野町の菖蒲塚古墳を訪ねました。菖蒲塚の名は菖蒲(あやめ)御前と源三位(げんざんみ)源頼政の悲話に由来します。
近衛帝の御代に鵺(ぬえ)退治で勇名を馳せた剛弓の使い手にして、和歌の名人と謳われた源頼政は平清盛に見込まれて出世をとげ、源家の最高位の従三位(じゅさんみ)の公卿に列して源三位(げんざんみ)と呼ばれました。 |
順風満帆に見えた晩年75歳の時、平家の横暴に嫌気して以仁王の発した平家討伐の令旨に呼応して挙兵したのです。しかし事前に露見して計画は頓挫、自身も追い詰められて平等院の芝生に軍扇を敷いて自刃したのでした。この時妾の菖蒲御前に手下の郎党猪早太を具して越後へ落ち延びさせました。
菖蒲御前は小庵を結んで源三位頼政の菩提を弔いました。
菖蒲御前が没すと郎党猪早太が供養のために開基したのが菖蒲山金仙寺(こんせんじ)のはじまりと巻町史は伝えています。
(俳句) 山寺に隣る古墳の風四月
(俳句) 風強き日の山つばき落ち椿
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古墳への山道 |
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古墳の丘より遠望 |
菖蒲塚前方後円墳は大きい |
金仙寺の扁額の揮毫 |
次に弥彦の桔梗城跡を訪ねました。桔梗城は別名弥彦城ともいい、平安時代後期の京都宇治に平等院が落成した頃、弥彦に移り住んだ源頼光の一族吉川宗方が築城しました。
10年後、奥州陸奥国安部氏の残党黒鳥兵衛が蒲原一帯を荒らし回り、弥彦神社を襲撃した時、撃退した功績により弥彦荘司に叙せられたと山頂の由緒書にありました。山頂の本丸広場の東端には86mの4等三角点、(点名シロヤマ)が草に埋もれていました。
(俳句) 一陣の風に栄枯の花吹雪
(俳句) 春昼(しゅんちゅう)の本丸跡にゐて一人
新型コロナが鎮静化した来年には、きっとトレッキングに来たい所だねと頷きあったのでした。(おわり) |
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弥彦城本丸跡は広い |
4等三角点にタッチ |
樹齢千年、樹高40m婆々杉 |
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