≪紀行文≫ |
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〜〜〜山姥にまつわる史跡を訪ね歩きました〜〜〜 |
世阿弥は上路集落の山姥伝承を基に謡曲“山姥”を書いたと言われています。
一般では山姥は人に害なす恐ろしい存在とされていますが、上路集落の山姥は村人を助けてくれる優しい神様のような存在として伝えられています。
上路集落には山姥にまつわる史跡が残されていますが、“金時の○○”と言ったものもあり、“山姥=坂田金時の母”というイメージによって後世に後付けされた伝承、史跡も多分に混ざっています。
「山姥の里」と言われる上路集落はかつては親不知の難所を逃れ山道に回る旅人の入り口として、また橋立金山への入口として栄えたのでしょうが、近年は過疎化が進み、富山県境の個数16戸ほどの小さな集落になっています。
上路集落の史跡を巡った後は、坂田峠に向かいました。坂田峠では和やかに食事し、ゆったりと周辺を散策するつもりでしたが、食事最中にも雨粒がポツポツ顔に当たりだしたりして、早々に坂田峠からは退散を余儀なくされました。雨を回避しつつ親不知周辺も何とか予定通り立ち寄ることができましたが、スマホの雨雲レーダー画面とにらめっこしながらの行動はせわしないものでした。
何とか雨には撃たれずに行程を全うしましたが、満足感は無く、心に残ったものは、何とかうまく立ち回れた、逃げ切ったという“ほっとした”安堵感でした。
集落中央部の上路山村振興センター脇の駐車場にバスを駐車し、史跡巡りの準備をしました。歩く場所はほとんどが平坦なアスファルト上なので、靴は普通のスニーカーなど、ザックも背負う必要がありません。 |
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駐車場で出発準備 |
山姥神社の入口付近から駐車場を振返る |
山姥神社入口の階段 |
山姥神社へ登る階段の奥の砂防ダムの壁面には謡曲山姥の場面を模した大きなレリーフが付けられています。
山姥神社への階段を登りきると“金時のぶらんこ藤”があります。古い大きな藤ヅルです。坂田金時は山姥の子供で、金太郎の頃この藤ヅルをブランコにして遊んでいたのだそうです。坂田金時が源頼光の四天王として活躍していたのは1020年頃、ずいぶん長寿な藤の木です。 |
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謡曲山姥のレリーフ |
金時のぶらんこ藤 |
山姥神社側からの金時のぶらんこ藤 |
金時のぶらんこ藤を抜けるとすぐに“山姥神社”があります。小さな石のほこらの神社です。でもこの小ささが逆に古くから語り継がれた伝承の重みを感じさせてくれます。皆さんごく自然にこうべを垂れお参りしていました。小さな石の祠がかもす雰囲気がそうさせたようでした。 |
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山姥神社 |
山姥神社石の祠 |
こうべを垂れお参りしてます |
集落内の民家のすぐ脇には金時が子供の頃にお手玉にしていた“金時の手玉石”、山姥が腰掛けて日向ぼっこしていた“山姥のひなたぼっこ岩”が在り、山姥の里の碑、山姥橋など山姥にまつわるものが散在しています。 |
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金時の手玉石 |
山姥の日向ぼっこ岩 |
山姥の里の碑 |
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山姥の里の碑 |
山姥橋 |
山姥橋を渡る |
集落から少し離れた大昔の小学校跡地にも山姥にお経を供えた“拝み岩”、“謡曲山姥の碑”、“山姥の句碑”があります。
しかし、小さな集落(多分高齢化した)がこうした史跡を維持していくことは大変なことなのでしょう。小学校跡地には携帯電話会社がアンテナを立てる工事をしていました。携帯電話会社には史跡の維持管理への寄与を期待しています。 |
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史跡の前で工事が進められている |
手前は拝み岩、後ろは謡曲山姥の碑 |
山姥の句碑 |
上路集落の史跡巡りを終える頃には空模様がかなり怪しくなってきていました。
早いところ坂田峠に行って飯を食わなければと気が急かされて坂田峠に向かいました。坂田峠は栂海新道が通っていて、ショートカットルートのための登山口になっています。シーズンには多くの登山者で賑わうのでしょう峠下には広い駐車場が2箇所整備されています。
幸い雨に降られずに昼食を終えましたが、雨粒がポツンとほほに当たったりしだしたので、峠周辺の散策は諦めました。 |
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坂田峠の栂海新道 |
廃道となった林道上で食事 |
坂田峠から駐車場への下り |
親不知に向かう途中、市振の長円寺に相馬御風の筆になる芭蕉の句碑“一つ家に 遊女も寝たり 萩と月”を見に立ち寄りました。 |
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長円寺の入口 |
芭蕉の句碑 |
句碑横の祠、特に意味はありません |
親不知では、希望者については波打ち際に降りたり、レンガトンネルを見学したりしようかと思っていましたが、あいにくの雨模様で階段が濡れて滑り易そうだったので希望者を募ることはしませんでした。結果、誰も階段を降りる人はいませんでした。ちなみにレンガトンネルまでは50m程、波打ち際までは70m程の下りと登り返しになります。
親不知コミュニテーロードを歩いて展望を楽しみました。 |
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親不知コミュニテーロード |
ウェストン像がある展望台 |
展望台からの眺め |
今コミュニテーロードとして残る遊歩道は、明治16年、断崖を削って開かれた街道で、現在の国道8号線が昭和41年に開通するまで使われていました。
コミュニテーロードを少し先に進むと、頭上の岩壁に“砥のごとく 矢のごとし”と刻まれています。砥石のように平らで矢のように真っ直ぐ通れるという意味で、難工事だった街道開通の喜びを表したものと伝えられているそうです。 (おわり) |
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親不知コミュニティーロードの先 |
砥のごとく 矢のごとし |
波打ち際への階段、今日は諦めます |
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