会山行紀行文 2019年
6/14(金)
晴れ
良寛たずね道B分水
参加者 (紀行文) 1862 Y/I
No−T32  グレード:D  17名 (俳句) 557 T/K
 担当リーダー 1234 A/B (男性6名・女性11名) (写真) 1862 Y/I
≪コースタイム≫
潟駅(8:05)=分水=夕ぐれの岡=菅原神社…阿部家=乙子神社草庵=国上寺…五合庵…本覚院と月見坂…朝日山展望台と千眼堂吊り橋…分水ビジターサービスセンター(昼食11:45-13:00)=分水良寛史料館…願王閣…中村家…大河津資料館(14:30-15:25)=新潟駅 (17:00)
≪紀行文≫
〜〜〜心和む良寛たずね道〜〜〜

 子供のころから親しみをもって慣れ親しんでいる越後の偉人の一人に良寛様が居られます。おっと良寛様を偉人と言ってよいのでしょうか。確かに詩歌や書に並外れた才能を発揮されていましたので偉人に違いないのですが、印象からすれば貧しく質素な普通の人と映ります。謂わば、大いなる凡人という表現が合っているのかもしれません。

 その心温かな良寛様の足跡が数多く残る地域「良寛の里」が近くにあるということは嬉しいことです。ですが、近くにありながら行ったこともなく、知らないこともなんと多いことか。そこを、Mリーダーが昨年からトレッキングで順次計画してくれています。今回は3回目の分水でした。

 良寛たずね道は、5箇所あります。生誕の地“出雲崎”、仮住まいの地“寺泊”、定住の地“分水”、父の生誕地“与板”、遷化の地“和島”です。
 良寛様は、厳しい修行と諸国行脚の末、導かれるように国上山の中腹にある五合庵に移り住みました。五合庵は森の中にある極めて簡素な草庵で、20年ほどの時をここで過ごしました。
 その後、59歳の時、乙子(おとご)神社草庵に移り住みました。理由は五合庵への山坂の上り下りが老身にこたえるようになったためと言われています。確かに、我々も今回、トレッキングでしたが山里を長く歩きましたので結構疲れました。

 托鉢修行で生活の糧を得て、自然や子供たちを愛し、人の心に寄り沿う慎ましやかな暮らしの中で磨かれた良寛様の感性は数々の詩歌や書を生み、その芸術性はこの時期、円熟期を迎えました。限りなくおおらかで深い人間愛に溢れる良寛芸術。その神髄を少しでも味わうべく普段とは違った意味でトレッキングを楽しんできました。

 また、雰囲気を感じていただく意味で、参加されたKさんの詠んだ俳句を紹介します。

 良寛の里じゃがいもの花盛り     良寛の詩碑ある庄屋今年竹     奥宮は進入禁止竹の秋
 晩年の草庵跡や青銀杏(いちょう)  苔の花ひょうたん池の水涸るる   大念珠かちかちかちと風涼し
 良寛の歌碑あちこちに町暑し     分水の役目を学び汗のひく

夕映えが美しい“夕ぐれの岡”、托鉢を終えここで一息ついたのでしょうか 後世のものと思われますが石碑がありました 菅原神社、阿部家の近くの小高い丘にある神社、良寛様も良く参拝した
ナデナデすると身体の悪い箇所が直るというお牛様 結構山道を登るのですよ、立派なトレッキングです 良寛59歳の時五合庵から移り住んだ乙子神社草庵、良寛芸術円熟の地です
国上寺のお地蔵さん、ボケ防止、ガン封じとつい拝みたくなる 開山1300年の越後最古の真言宗の名刹、国上寺 五合庵、静寂に包まれ佇む庵、良寛40歳から20年過ごした
本覚院、五合庵に定住する前に仮住まいしたお寺。大念珠のカチカチ音が心地よい 千眼堂吊り橋を渡って朝日山展望台にやってきました 分水サービスビジターセンターで楽しいランチ
願王閣、大庄屋富取家が建立し寄進した 良寛の弟子の遍澄が4代目の住職を務めた。遍澄の歌碑がある 立派な彫刻が見られます
最後に、大河津資料館に立ち寄りました。説明の学芸員は何と私の後輩でした。 大河津分水の歴史と恩恵を丁寧に説明して貰いました
     良寛様托鉢の図