≪紀行文≫ |
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〜〜〜戊辰戦争の傷跡を深く残す山でした〜〜〜 |
会津若松城(鶴ヶ城)の南東2km、会津若松市郊外の小高い丘とも言える小田山は、現在は公園として市民に親しまれているものの、小田山城址でもあるその歴史は古く、古代からの古墳群や葦名家に関する廟、戊辰戦争の名残などが見られます。
その山頂には、会津藩の名家老であった田中玄宰、丹羽能教の墓もあります。
(俳句)会津路は植田となりて大晴日 藩侯の墓所跡苦菜(にがな)一面に
古墳群夏鶯(なつうぐいす)の声しきり 曲がり輪の跡朴若葉朴若木
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広い登山道、入り口 |
歴史の見どころには標識と説明板の建つ |
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陽射しはあるが風もあって有難い |
小田山古墳群の説明書き |
小田山城大手口 |
戊辰戦争では、新政府軍が砲台を築き、1.6キロほどの鶴ヶ城に連日、砲火を浴びせた。この為、鶴ヶ城は戦火に崩れ会津藩は下北半島に流されて塗炭の苦しみを味わうこととなる。
(俳句)葉桜の砲陣跡や城真近
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会津若松市街が一望に。ここから新政府軍は鶴ヶ城を砲撃した。 |
例年になく暑い5月、暑い陽差しを心配していたが、爽やかな風の吹き抜ける快適な天気の下で、いろいろな歴史に名を残す小田山ですが、登山路というよりも小さな車の通れる車道を歴史の説明板を見ながらゆっくりと登りました。 |
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名家老・丹羽能教の紹介と墓石。 |
山頂直下を登る |
山頂からは、会津の市街地の向こうに見える飯豊連峰や磐梯山の雄姿を楽しみ、昼食後にはK/SさんのハーモニカやいつもながらのT/Kさんのお点前を戴き、楽しい時間を過ごさせて戴きました。
(俳句)青空に浮く飯豊山雪残る 新人の手を借り野点若葉風
*小田山で、歴史の遺物や説明板があった主なものは、以下の通り。
〇葦名家・寿山(じゅざん)廟 (下) 〇葦名家・寿山(じゅざん)廟 (上) 〇観音堂跡
〇砲陣跡地・展望台、砲陣跡地 〇小田山城・冠木門(かぶきもん) 〇小田山城・曲輪(くるわ)群
〇家老・丹羽能教 (にわよしのり) の墓 〇家老・田中玄宰(はるなか)の墓 〇物見櫓跡小田山城址 (山頂)
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山頂展望台からは市街地の向こうに飯豊連峰がクッキリ! |
小田山城址での集合写真 |
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名家老・田中玄宰の墓碑。 |
陽射しを避けて昼食 |
開放的な道を下ります。 |
下山後は、飯盛山の白虎隊十九戦士の墓地を訪ねました。
ガイドをして下さった方の名調子に引き込まれながらも、戊辰戦争での白虎隊の活躍とその後の自刃に至る運命に、歴史の厳しさを感じました。
(俳句)万緑に十九のお墓白虎隊 自刃の地見おろす階に著莪(しゃが)の花
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白虎隊十九士の墓、当時の様子や背景などの説明を戴く。 |
ローマ市より贈られた塔 |
数々の白虎隊に纏わるエピソードや歴史に、彼らの純粋さが胸を打ちます。
また、白虎隊の武士道や忠君の志に感動したドイツとイタリアのローマから立派な記念碑が贈られた経緯にも、時代と国境を超えた感動を覚えました。
(俳句)万緑や碑はローマからドイツから
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ドイツより贈られた碑 |
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鶴ヶ城を望む白虎隊自刃の地 |
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上り下りが出会えない不思議なさざえ堂 |
飯森山・ローマより寄贈塔の前での集合写真 |
いろいろな会津を楽しんだ後、新潟への帰路では阿賀町三川の天然記念物・将軍杉を見学。
樹齢はなんと1400年、幹周は約19mもあり、高さは約40mあると言われています。
平成13年度環境省の調査によれば、屋久島の縄文杉(16.1m)を抜いて日本一の巨木となったという。
(俳句)さざえ堂折々窓の風涼し 千年の将軍杉に若芽立つ 茅葺の屋根に若葉の薬師堂
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天然記念物・新日本名木百選の将軍杉 |
平等寺薬師堂 |
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