≪紀行文≫ |
|
|
〜〜〜いにしえの街道にひたる〜〜〜 |
殿様街道は江戸時代に新発田と会津間に作られた会津街道のことです。参勤交代に使われたために殿様街道と呼ばれており、お殿様の籠が揺れないように、幅広く緩やかな石畳で作られており今でも一部が残されています。その殿様街道を津川側から諏訪峠を越え、三川の行地まで歩きました。
雨予報のため6日に変更された山行でしたが、予報が大きく外れ6日は雨のマークになってしまいました。しかし、出発時の新潟は晴れており、少し期待ができそうです。津川に着いた時は、一面の霧。現地のガイドさんの「濃霧の時は雨にならない。」という言葉に励まされて清川高原保養センター前を出発しました。
濃霧は、いにしえの街道歩き風情を添えてくれています。落ち葉を踏みしめ三本松の東屋に到着。今では松の木が二本になってしまったが、江戸時代は休憩所になっており、その頃は津川の町がよく見えたそうですが、今では鬱蒼とした杉林の中になっています。
(俳句)奥阿賀の会津街道紅葉して (俳句)一息をつく二本松草紅葉
|
|
|
|
ガイドさんと挨拶 |
これより石畳の道 |
ガイドさんの説明を聞き |
|
|
|
三本松の東屋 |
時には林道と交差して |
黄葉のトンネルを行く |
石畳の街道は、一部林道との併用になりますが柳新田までよく残されています。この石畳は現地の石を使い、幕府の命令で山梨の韮崎からきた石工によって造られたそうです。特に、「どうしん坂」は階段状になって石の積み方も良く、石畳が一番きれいに残っています。霧の中に浮かぶ紅葉と石畳が見事に調和、殿様行列の一員となった気分を味わいながら歩きました。
(俳句)石畳踏めばどんぐり転がりし (俳句)猿よぎる道から人も炉火香る
|
|
|
|
江戸時代に作られた石畳 |
街道も今はガード下 |
津川側最後の集落、柳新田 |
|
柳新田からは天然記念物の桂の木を見るために、街道を外れ山道の歩きになりました。山道といってもここは地元の方の生活路だったそうです。
桂の木は樹齢300年、目通り7.5m、高さ32mの巨木でした。黄葉した葉からは甘い香りが漂っていました。
昔は桂の葉っぱを集めてお香を作っていたので「香の木」とも言われていたそうです。 |
|
|
町の天然記念物「桂の木」 |
街道を外れ |
雨が降り出し |
山道から街道に戻って、柳新田一里塚に到着。柳新田の一里塚は大きく、高さ3m、周囲30mあるそうです。旅人の目印として大いに役立ったと思われます。
一里塚から都和峠までは舗装の林道歩きになります。途中、雨になったが諏訪峠に着いた時には雨も上がり、峠から五頭連峰を一望することができました。
(俳句)霧まとひ真直ぐ空へ杉木立 (俳句)岩つかみ無事に越えをり時雨谷 (俳句)草紅葉して一対の一里塚
|
|
|
|
一里塚で休憩 |
大きな柳新田一里塚 |
再び街道歩き |
諏訪峠には吉田松陰の詩碑が設置されています。
諏訪越えの困難を詠った漢詩の説明と、峠に残る諏訪神社跡の謂れを聞き、行地に向け出発。 |
|
峠へは林道歩き |
|
|
吉田松陰の詩碑 |
|
松陰の詩の説明を聞く |
諏訪峠にて集合写真 |
|
|
|
諏訪神社の謂れを聞く |
峠から見えた五頭連峰 |
行地に向け出発 |
諏訪峠からは三川側に入ります。下り一方、一部ヤブ化した所もありましたが、元は街道なので歩きやすく、所々に石畳が残っていました。
三川側は人があまり入らないせいか、熊が杉の木の皮をはいで樹液を舐めた後の「熊ハギ」が多く見られ、大きな糞も5〜6ヶ所で見つかりました。嬉しいことにナメコも見つかり、思わぬキノコ狩りができました。
(俳句)松陰も越えし峠や霧晴るる (俳句)霧にうく紅葉を賞でつ下山道
|
|
|
|
霧の街道歩き |
三川側はワイルド |
へつりの道もあり |
殿様街道も終盤です。3年前の大雪で折れてしまったと言う大ブナの木を見、中の茶屋跡、行地一里塚を通り定刻通りに行地に着きました。 標高差400m、距離にして7qの長丁場でしたが、平均年齢75才、その中で80才以上の方が6名、一人も遅れることなく完歩できました。
雨模様の中の山行でしたが、清々しく充実した一日を過ごすことができました。
(俳句)街道の巨木になめこぞっくりと (俳句)奥阿賀の捨て田に伸びし葦枯るる (俳句)街道の旅籠は昔柿の村
|
|
|
|
大雪で枯れた大ブナ |
倒木もあり |
ようやく道も良くなり |
|
|
|
霧の紅葉も良し |
自然のまんま |
大量のナメコに遭遇 |
|
|
|
行地一里塚 |
休耕田の中を歩く |
行地の集落が見え |
|