会山行紀行文 2018年
10/21(日)
快晴
越後米沢街道・十三峠C
大久保峠・宇津峠・諏訪峠
(370m) (491m) (280m)
参加者 (紀行文) 2097 T/Y
No−138 グレード:C 35名
 担当リーダー 2097 T/Y (男性12名・女性22名) (写真) 2097 T/Y
≪コースタイム≫
新潟駅南口(7:10)=ベイシア新潟豊栄店(7:40)=聖篭新発田IC(8:00)=(日東道)=荒川胎内IC=(国道113号)=道の駅関川(8:45)=スクールバスロータリー(9:43)…大久保峠…スクールバスロータリー(10:10)=宇津峠入口(間瀬)(10:32)…宇津峠頂上(12:14-13:00昼食)…宇津峠出口(地蔵尊)(14:04)=手ノ子集落=横山邸(14:33)=関山ノ下=松原集落=諏訪峠古道(入口14:54-出口15:24)…諏訪神社(15:40-16:20)=道の駅関川=(国道113号)=荒川胎内IC=(日東道)=聖篭新発田IC=ベイシア新潟豊栄店=新潟駅南口(19:30)
≪紀行文≫
〜〜〜越後米沢街道沿いの宇津峠等の史跡や四季の自然に触れてきました・パート4〜〜〜

 越後米沢街道は、山形県米沢市の大町と新潟県関川村を結ぶ長約70kmの街道である。別名「十三峠」とも呼ばれており、山形県川西町小松と新潟県関川村下川口の間には大小13の峠が存在し、この峠道は戊辰戦争の舞台となり、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが難儀して旅をしたひとつ行程である。
 他にも、伊達政宗や五郎八姫、良寛、直江兼続、西郷隆盛、原敬などが通ったといわれており、正に歴史の道でもある。
 この峠道は、大永元年(1521年)に伊達14代の稙宗(たねむね)が、大里峠を開いたのが始まりである。それ以前は、田代峠という標高700mを越えるルートであったが、大里峠が開削され、標高487mの山形・新潟の県境を越えるルートとなった。
 その後、順次東側のルートが整備され江戸時代の初めには十三峠が成立したといわれている。上杉藩により、宿駅・伝馬制度が整うと、ますます街道の重要度が高まり、最上川舟運と併せ、置賜の経済活動を支えるようになり、長期間にわたって置賜と越後を結ぶ幹線道として重要な役割を果たしたとのこと。



 越後米沢街道は、山形県米沢市の大町と新潟県関川村を結ぶ長約70kmの街道で「歴史の道百選」「日本風景街道」に登録され、英国の女性探検家イザベラ・バードの旅行記の舞台ともなった越後米沢街道・十三峠を4回に分け4回目は大久保峠〜宇津峠〜諏訪峠をトレッキングしました。第4回は10.8kmありますが、途中移動にバスを使い約6 km歩きました。

 今回のメーンの宇津峠では、紅葉の真っ盛りのなか明治の国道と頂上を超えた道はイザベラ・バードが歩いた江戸時代に作られた古道をゆっくりと歩き、途中の遺跡と良寛が通り俳句が残されているなど歴史の深さに魅せられてきました。
 快晴でしたが涼しく女性探検家イザベラ・バードや先人たちの歩いた道を辿り、行程はほぼ時間通りでしたしガイドの説明を受けながら街道沿いの史跡や自然に触れて、楽しんで歩きました。

 新潟駅から24名を乗せ、途中ベイシア新潟豊栄店駐車場8名、聖籠新発田IC1名、道の駅関川1名を乗せ合計34名。聖籠新発田ICから日本海東北自動車道に乗り、荒川胎内ICで下りて国道113号等経由で、途中でガイドさん2人を乗せ大久保峠に9:43到着。

≪大久保峠≫(小国町間瀬と沼沢を結ぶ)
 間瀬からは米坂線と国道113号線が古道を分断しており通ることはできない。
 遅越トンネルの手前から右の杉林に入ると古道の道形が現れる。峠全体にほぼ道形は確認できるが、長年手入れがされず道に生えている木は大きい。
 峠の歴史は、間瀬の西側から入り、登ると広い台地になっており緩やかな大きなくぼみとなっている。地名 はこの大窪に由来している。現在は一帯が造林地となっている
道の駅関川で登山靴に履き替える 岡村ガイドさん先頭で大久保峠入口に向かう 大久保峠入口から急登、急登はこれのみ
岡村ガイドさんから大久保峠の説明 窪んでいる所が大久保峠の古道 大久保峠向かいの紅葉

≪宇津峠≫(飯豊町手ノ子と小国町間瀬を結ぶ)
 大里峠が開かれた後も、小松〜小国東部間のルートは数回変更され、諏訪峠〜手ノ子〜(宇津峠)〜間瀬のルートは江戸時代になってからようやく開かれた。このルートで宇津峠を越えるようになってからも、雪崩を避ける等のため何回かコースの変更や改修工事が行われた。十三峠の中でも特に険しい峠である。
 頂上近くには、そのことを物語る「道普請供養塔」があり、立派な「馬頭観世音」碑も残されている。現在、峠の全長は4.7kmであるが十三峠の古道を通るのは、落合地蔵尊から約200mと大比戸から上の数百メートルであり、他は旧国道を通るコースである。
 峠の歴史は、大永元(1521)年伊達稙宗が大里峠を切り開き、越後街道も出ケ峰より北の宇津峠に道 を求めたが、沼沢以北の開発は遅れていた。天文(1532〜35)年間に斎藤兄弟の開削。 その後、慶安(1648〜51)年中小渡村宝幢院の行人の願かけによっての開削。天保の 道普請さらに三島通庸による新道開削から現在に至る。
宇津峠入口手前の昭和の国道(廃道)で登山準備 登山開始 宇津峠案内板
宇津峠は4つの道があり、
江戸の道・明治の道・昭和の道・平成の道を説明
山ぶどうの実やアケビの実を取り皆に配る
 紅葉が始まっている  この道、明治の道は
1964東京オリンピックの聖火が通った道と説明
宇津峠の最高点標識
最高点標識からすぐに古道入口(江戸の道)になる 「馬頭観世音碑」天保6年からの敷石工事で
運搬役のへの愛情を顕したもの
江戸の道の頃の頂上への説明板
写真 172〜  175〜
頂上直前の「宇津峠介茶屋跡」 推定樹齢200年の「北こぶし」 177〜 頂上にある「宇津峠道普請供養塔」「宇津大明神碑」など
1グループ(1/2/3班)の集合写真 2グループ(4/5/6班)の集合写真
頂上から分岐している古道入口(江戸の道・イザベラの道)  宇津峠介茶屋跡」近くで昼食 左明治の道(掘割)で右奥が江戸の道(越後の小千谷紬の
原料として品質優良な米沢産の青秤^搬とイザベラの道)
秋の木漏れ日を浴びて快適に歩く  奥に樹齢400〜500年の宇津峠「はだか杉」
江戸期末頃の絵地図に も記録のある巨木
イザベラ・バードが見た米沢盆地
「イザベラバード眺望の地」
古道(江戸の道)で良寛が漢詩「米沢道中」を書いた地  古道(江戸の道)から明治の道分岐  宇津峠出口にある「落合の地蔵尊」
 宇津峠出口  宇津峠出口にある「宇津峠案内板」  イザベラ・バードが宿泊した「横山邸」

≪諏訪峠≫(小国町白子沢と市野々(白い森おぐに湖)を結ぶ)
 13ある峠の内、米沢から来ると最初の峠で川西町と飯豊町を結ぶ峠道である。山の頂上に観音堂があったことから観音堂山とも呼ばれている。峠名は小松にある諏訪神社にちなんだものと思われる。
 古道は頂上下の小松側に部分的に残るが、新道開設により分断されている。飯豊町側は牧草地になっており古道は分からない。下記の地図は県道250線の道路を諏訪峠としている。
 諏訪峠入口で下車  諏訪峠入口で説明 諏訪峠の頂上から見える米沢盆地
 頂上の見晴らし場所  2グループの舟山ガイドの説明 若松観音 
伊達政宗 や上杉景勝が献上・寄進をした最も古い神社「諏訪神社」奈良時代前期の和銅年中(712年)社殿が造営