≪紀行文≫ |
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〜〜〜戦国乱世を生き抜いた真田一族におもいを馳せる〜〜〜 |
(俳句)信濃路は空青々と薄紅葉
秀麗あきうらら!
雲の切れ間から輝く太陽が顔を覗かせ、いい日和となった。刈田のひこばえが車窓に広がる田園風景の中、一路真田の郷を目指した。 |
砥石城は、東太郎山の尾根上に築かれた「本城」「砥石城」「枡形城」「」米山城」の4つの城から構成された要害堅固な中世の山城、県の史跡ともなっている。
名将武田信玄でさえも落城を果たせず敗退した「砥石崩れ」。真田幸隆は独力で砥石城の攻略を成功させ、真田地方の領主に返り咲き、知謀を巡らす戦い振りが名声を高めていったそうだ。
(俳句)日をいだ抱くりんご畑の登山口
たわわに実った林檎畑脇の駐車場で身支度を整え、個々にウォーミングアップ。 |
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米山城・砥石城・枡形城 |
体調に合わせてウォーミングアップ |
道路脇の畑にたわわに実る林檎 |
六文銭の旗の歓迎を受け、整備された櫓門を潜って砥石城・米山城趾登山口からスタートした。(標高は砥石城が789m・米山城が734m)
(俳句)草の花三百段を登り切る
(俳句)紅葉せる砥石城趾で息をつく
米山城との分岐点にさしかかり砥石城方面へ向かった。
いきなりの急登。300段の階段では、「ロープにつかまった方がいいよ。」「滑りやすいからね。」と、安全に登山できるように、声をかけ合って進んだ。登山者を危険から守るためにロープが随所に設置されていたが、足元は細かい石で滑りやく、注意が必要である。 |
登山道や郭などの草木は美しく整備されていたが、赤松やクヌギなどの樹木が高木となり、樹木の隙間から上田市の南側が一望できた。
本城跡・枡形城跡を歩き、枡形城跡で昼食。上田の町が陽の光に輝き、折り重なる山々が青のグラディーションを彩っていた。
(俳句)石垣の残る城跡野菊咲く
(俳句)真田郷見おろす城趾秋うらら
戦国での山城は敵を寄せ付けないようにするために、山の尾根を分断させる「切岸」や「堀切」。侵入や攻撃を防ぐ「土塁」。土塁や塀で入口を囲み、足を止める「馬出」など、変化に富んだ地形を作り上げていた。 |
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新設された櫓が臨場感を演出 |
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整備された300段の階段 |
砥石城の歴史を示す看板 |
道幅・高低差・形状など攻略に富んだ城造り |
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土塁の上に咲く野菊 |
城の防備の1つから堀 |
本城跡地で休憩 |
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枡形城跡地から上田市を望む |
枡形城虎口で秋の陽射しをおかずに昼食 |
この一服で元気をいただきました |
有事の時は山城に立て籠もり戦いに備えるが、日常生活は麓のお屋敷で過ごしていた。
お屋敷の西側は防御のために堀や土塁で取り巻かれており、当時の居館の形態がほぼ完全な形で保存されているそうだ。
公園は、ふかふかの芝生。高さが大人の背丈を越した躑躅の枝に朱色のなごり花が咲いていた。
(俳句)城跡のなでしこめ賞でつ野点する
(俳句)紅葉せる木々の木洩れ日下山道
(俳句)真田郷ガイドせわ忙しく柿たわわ |
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随所に整備された名勝地案内板 |
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ガイドさんの説明を真剣に傾聴 |
武田家を模倣した庭園 |
お屋敷内にも神社を創建 |
NHK大河ドラマ「真田丸」のロケ地を観光しながら真田氏本城跡を目指した。自然な地形を生かした厳重な防備。興亡を繰り返し、戦国時代を堂々と渡り歩いた真田知将三代を生み出した真田の郷の風土を実感した。 |
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真田本城跡へ向かう |
真田氏本城跡地・土塁 |
真田の郷におもいを馳せる |
六文銭が刻まれた桃の型をした石門やしだれ桜の紅葉が印象的な寺院長谷寺。
真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺で、境内には幸隆夫妻と昌幸のお墓・幸村公の供養塔がある。
墓石の前の仏具の上には六文銭ならず1円玉や5円玉、十円玉で真田の六文銭の家紋を形作ってお参り。
どんなことを思いながら手を合わせたのだろう?
現在は、信之(幸村の兄)が松代の藩主となった時、長国寺(ちょうこくじ)へ建立したので、その末寺になっているそうだ。
山家神社は四阿山を源とする神川沿岸地域の水分の神として厚く崇拝されていた。
真田の郷の田畑や生活用水の水源は神川(神の川)に頼るしかなく、真田家の氏神にもなっていた。 |
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長谷寺の歴史を語るガイドさん |
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長谷寺アーチ形石造りの山門 |
幸隆夫妻と昌幸の墓石 |
墓前に家紋の形でお賽銭 |
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山家神社の鳥居 |
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山家神社本殿 |
山家神社本殿前にて集合写真 |