会山行紀行文
T-51
2015年
 9.30(水)
晴れ
(しりたかやま)
尻高山
677m
参加者 (紀行文) 1949 M/O
24名
(男性8名・女性16名) (写真) 1949 M/O
≪コースタイム≫
新潟駅(7:10)=新潟西IC=(北陸道)=親不知IC(9:30)=道の駅親不知ビアパーク散策(翡翠ふるさと館9:40-10:00)=坂田峠(11:00)…尻高山(昼食12:00-13:00)…坂田峠(14:00)=天嶮親不知散策(14:30-15:05)=新幹線糸魚川駅散策(糸魚川ジオステーションジオパル15:45-16:25)=糸魚川IC=(往路)=新潟駅(19:00)
≪紀行文≫
〜〜〜栂海新道の一部分をのんびりと〜〜〜

 満杯のバスは新潟を出発して一路“道の駅親不知ビアパーク”まで走ります。 ここで約30分休憩しました。 
 目の前は日本海です。 ヒスイで有名ですので運が良ければヒスイの原石が見つかるかもしれません。
 (どなたか 運よく見つけたようです。)

 その後坂田峠へとバスは進みます。 
 到着です。 バスを降りてゆっくりと支度して出発します。

 現在、坂田峠には鉄板をガス溶接で切り抜いた「坂田峠」の看板と古びた地蔵が一体ひっそりとたたずんでいます。

 ≪看板の記載されている文です≫ 

  旧上路村から橋立村へ通じる坂田峠道は、越中と越後を結ぶ山回りの北陸街道であって、海岸沿道が不通のときはバイパス道として重要な役割を果たしてきた。坂田峠の呼び名は、上路の山姥伝説に由来するものであろう。

 峠を下った阿曽谷右岸側には、平坦な段々斜面に橋立金山精錬所跡が残されている。かつて金山には1,000人もの人たちが住み、当地方で最初に電灯がつくなど生活レベルも高かったという。
 明治30年代はこの山中が景気の良い鉱山街で賑わっていて、泊の芸子さんが人力車で峠を越えて通った、芸者街道とも言われている。
 古道は今も部分的に残っているが、ほとんど藪に覆われて通れなくなっている。
 現在、坂田峠には古びた地蔵が一体ひっそりと昔日の故事来歴を秘めて立っているが、昭和46年に開通した栂海新道の縦走者が、峠に新たな足跡を残して通過していくようになった。

                                                   平成10年10月 青海町自然史博物館友の会
 
 
“道の駅親不知ビアパーク”傍の海岸   「坂田峠」の古びた地蔵  「坂田峠」の看板


 手入れの行き届いた気持ちの良い登山道をゆっくりゆっくりと進みます。

 ビスターリ! ビスターリ!
手入れの行き届いた登山道

 1時間ほどで 尻高山に 到着です。 ブナの林が広がっていてとても気持ちの良い所です。
 広い広場も無いので適当に登山道に腰を下ろしてお昼を食べました。 

 そんな所に男性3名が やってきました。 栂海新道をはるばるとたどりやっと尻高山に着いたのです。 もちろんこの方たちは日本海の海までまだまだ頑張るのです。 
 少し休憩したら最後の力を振り絞って下山されていきました。
 (後で 日本海の最終地点で 再びお会いしました。)
絵を描かれる姿が絵になっています。
気持ちいいブナ林  三角点にタッチ
集合写真  素敵なゲーターですね。

 下山口までまた 再びゆっくりと戻ります。
 バスに乗って 天嶮親不知で 日本海の海辺まで長い階段を下りてみました。 途中トンネル(隧道)がありました。
親不知隧道の説明版 
 親不知隧道の前にて 朽ちたトンネル跡


 新幹線が糸魚川駅に停まるようになって駅がリニューアルされているので、良い機会と言う事で見学しました。

  ヒスイの展示もあったり、お土産物も販売していました。

 駅の2階から 山が良く見えるのでリーダーから 山の名前を教えてもらいました。

 皆さん目を輝かせて あの山は〜!

 バスが来たのでバスに戻らないと・・・・・ リーダーが 戻りますよ〜!の声にも皆さん 山に夢中です。(笑)



 米山パーキングから夕日を眺めて一路新潟に戻りました。

 天気も良くて栂海新道の一部分をのんびりと歩くことが出来ました。

 ありがとうございました。
日本海です(少し波がありました)
米山SAから観る日本海